バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第133回は、「滑降について」。
泣いて止める編集者たちを振り切って出かけたゲレンデ
高校を卒業したばかりの娘4人とともにスキーに行ってきた。
くれぐれも誤解なきように言っておくが、私は引率者である。わが娘が大学をことごとく滑ってしまったので、ついでに滑りに行こうということになり、娘の友人3名を誘ったのであった。
私の青春はスキーなしには語れない。スキーがなければたぶん大学に行けた。スキーと競馬がなければ早稲田か慶應に行けた。スキーと競馬と麻雀と女がなければ、まちがいなく東大に行けた。たしか現役受験の1週間くらい前までは石打の民宿におり、浪人受験の2、3日前まで蔵王の旅館に居候をしていたと思う。
今回の行先はあれこれと思案したあげく、八方尾根(はっぽうおね)に決めた。理由はしごく単純で、オリンピックの滑降コースを滑ってやろうと考えたのである。当然、原稿待ちの編集者たちは泣いて止めた。止める理由はまあわからんでもないが、20歳のときに滑ったコースを46歳になって滑れぬというのはしゃくにさわる。どうやら彼らは、私の本質的性格をまだ知らぬらしい。やれと言われれば意地でもやらず、やるなと言われれば槍(やり)が降ったってやるのである。で、出発に先立ち、槍が降ったらやめるが雪でも嵐でも初志貫徹と誓った。
ところで、スキーは5年ぶりである。それ以前も思い出したようにしか行ってはいない。しかも両足はすっかり退化して昆虫のごとくになっており、にもかかわらずなぜか体重は変わらぬ。このアンバランスな肉体で派手にコケれば骨折は必定、という気はした。
前夜から泊まりこんでいた娘どもを夜中の3時に叩き起こして出発。おじさんは寝起きがいいのね、などと娘どもは驚いていたが、そうではない。3日分の前倒し原稿に追われて寝ていないのである。さしあたっての問題は山頂から滑り降りることよりも、四駆を駆ってはるか白馬山麓までつっ走れるかどうかであろう。
それにしても、しばらくご無沙汰していた間のスキー旅行の変わりようといったら、まさに隔世の感があった。なにせ長野直下のスキー場はすべて高速道路でつながっちまっているのである。しかも豊科(とよしな)インターから白馬まではオリンピック道路ができており、かつての塩尻峠越えの難所を思い描いて娘どもを夜中の3時に叩き起こした私は愚かであった。
当然のごとく八方尾根には朝っぱらに到着してしまい、チェック・インには間があるのでただちにゲレンデへ直行とあいなった。
4年か5年に1度というオリンピックみたいなスキーであるから、むろん用具はレンタルだが十分にこと足りる。おじさんが君らぐらいのときは、貸スキーといったら木製のオンボロで、ストックは竹だったのだよと言っても、娘どもにはサッパリわからぬらしい。身長170センチの私が175センチの板を所望するというのもみじめである。20歳のころには2メーターの板をはいていたのであるが、まさかそれは無理な話、昆虫のような足を考えれば1センチでも短いほうがよろしい。
ゲレンデに出て仰天した。なんだアレは。大勢の若者たちがストックも持たず、両足を1枚の板にのせて滑っているではないか。
恥ずかしながら私は、オリンピック中継で目にしたスノーボードなるスポーツが、かくも一般的なものであるとは思ってもいなかったのである。いや、一般的なというよりも、その数はすでにスキーを凌駕(りょうが)している。ことに若者たちは7割方がボーダーで、一見したところスキーヤーはおっさんばかり。このままあと10年もたてば、スキーは高齢者専用の囲碁か将棋のようになってしまうのではあるまいか。
リフトに揺られながら「スキー専用ゲレンデ」でシュプールを描く10年後の自分を想像し、暗鬱(あんうつ)な気分になった。