ここでこけたら命はない急斜面を前に……
ところで、滑り始めて自分でもふしぎに感じたのであるが、5年ぶりのスキーとはいえ案外忘れてはいないのである。頭で覚えたものは3日で忘れちまうくせに、体で覚えたことは忘れない。たとえば水泳とか、自転車の乗り方とかも同じ理屈であろう。
てなことを考えながら調子に乗って1日を過ごし、ホテルに帰りついたとたん足腰が立たなくなった。
温泉につかり、ベッドで痛え痛えと唸(うな)っておるところに次々とファックスが飛来。明日の午後までに戻せというゲラの山である。ウンザリと眺めていると電話が鳴り、某誌連載インタヴューの開始。危いことはやめて下さいと泣いて止めたのは、いったいどこのどいつらであろう。受話器を置いたとたんアホらしくなって寝てしまった。
早朝、娘どもに叩き起こされる。おじさんはゲラがあるので君たちは勝手に滑ってらっしゃい、とはまさか言えず、ひそかにゲラの束をウェアのポケットに忍ばせてゲレンデへ。
無風晴天の日本晴れであったのは幸いである。ずいぶん忙しい思いをしてきたが、よもやアルプスを一望にするスキーリフトの上でゲラ校正をするなどとは思ってもいなかった。要するにもしこの日が吹雪であったのなら、某誌4月号に掲載予定の短篇はみごとに落ちちまっていたのである。この稿を読んだら担当編集者はさぞ冷や汗をかくことであろう。ちなみにこの短篇のタイトルは「ひなまつり」という。
短篇といっても原稿用紙で70枚ばかりもあるから、校正もけっこう手がかかった。セッセと赤ペンを走らせるうちに、いつの間にかリフトを乗り継ぎ、咲花(さっか)ゲレンデから北尾根、さらにスカイラインコースを足下に眺めつつ黒菱(くろびし)の高みへ。よおし終わった、とゲラをウェアのふところにおさめた場所は、海抜1840メートル、泣く子も黙る八方尾根リーゼングラートのてっぺんであった。
五竜岳(ごりゅうだけ)、唐松岳(からまつだけ)、白馬鑓(はくばやり)、杓子岳(しゃくしだけ)、白馬岳(しろうまだけ)――息を呑む大パノラマと同じ高さに私は立っていた。いや、景色なんかどうだっていいのである。ともかくここは第一ケルンよりもっと上で、昔はリフトも架かっていなかった。オリンピックの滑降だって、もっとずっと下からスタートするのである。
むろんスキーヤーの数もまばらで、むろんむろん、昆虫のような足をした46歳の小説家はいないのである。いてはならんのである。
景色を眺めるふりをしてビビッていると、八方池山荘(つまりてっぺんの山小屋)から冬山装備の山男が出てきて、「こんちわ」とか言った。どうやら尾根づたいに唐松岳をめざすらしい。
意を決して第一ケルンまで降りると、遭難者に手向(たむ)けられる花と供物が目に止まった。つまりそういうところなのであった。
黒菱を見下ろす急斜面は吹きっさらしのアイスバーンである。ゲレンデではなく、ただの氷の壁なのである。
「こえー、ここでコケたら止まらねえぞー!」
と、屈強な若者が言う。
「おっかねー、黒菱の下までまっさかさまだよなー。命ねーよなー」
2人の若者はエッジングも軽やかに滑り降りて行った。
おまえらはよい。俺だって20年前ならコケずに降りた。しかし、46なのだ。ずっと締切に追われて、足は昆虫のごとく退化し、ギックリ腰と四十肩と座骨神経痛を患い、もののはずみでここまで来てしまったのだ。
とりあえず死ぬ前に、携帯電話でゲラを送ろうかと思ったが、縁起でもないのでやめた。「ひなまつり」という短篇の題名はいかにも遺作にふさわしい感じがした。そういえばこの間の「勇気凜凜ルリの色」のタイトルは「訣別について」であった……。
冗談半分めかして書いてはいるけれど、本当にこわかったのである。おっかなかったのである。だが「こえー」も「おっかねー」も言えないのが46歳の男なのである。
とにもかくにも「ひなまつり」は絶筆とならずにすんだ。まずはめでたし、めでたし。
(初出/週刊現代1998年3月28日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。