「織田につくべき」
その後、播磨の国は織田、毛利の2大勢力が争い、小寺氏はどちらにつくか決めかねていました。その際に織田につくべきと進言したのが孝高でした。天正3(1575)年長篠の合戦で武田勝頼を倒した信長の才能を評価したからにほかなりません。同じ年、孝高は、秀吉の取りなしのもと岐阜城に出向いて、信長に謁見、服属します。
そして、信長の対毛利中国侵攻の際、孝高は秀吉軍に属し、息子である松寿丸(後の長政)を人質に差し出します。臣下の礼をとる孝高に、秀吉は「その方は、わが弟、小十郎(秀長)同然に心安く思っている」という手紙を送っています。
さらに秀吉が播磨に到着すると、居城である姫路城を差し出し、自分は二の丸に移ります。秀吉が姫路城を拠点にするのはこの時からです。
秀吉軍に舞い込んだ密使で信長の死を知る
天正10(1582)年6月2日明け方、本能寺の変が勃発。当時羽柴秀吉は、備中高松城で毛利軍と対峙していましたが、翌3日、光秀が毛利方に送った密使がたまたま秀吉軍に迷い込んだことから、織田信長の死を知ることになります。
悲嘆にくれる秀吉に、「さあ、天下をお取りくださいませ」とささやいたのが孝高です。冷静な孝高は、「信長の死を、信長の家臣たちはまだ誰も知らないであろう」「京にいち早く戻り、明智光秀を討ち取れば、有力な後継者になれるであろう」という2つのことを直感的に感じ取り、秀吉に進言したのが、この言葉です。
この孝高のひと言がなければ、秀吉の天下取りはなかったか、もっと時間がかかったと思います。
本能寺の変のわずか3日後、姫路城へ出発
秀吉はかねて毛利方から出ていた和議を、備中高松城主・清水宗治に腹を切らせることなどでまとめ、本能寺の変のわずか3日後(6月6日)には姫路城へ出発。翌日は1日中歩き、2日で約80kmも移動して、姫路まで1日半で到着します。
秀吉は姫路城で風呂に入りながら、ありったけの金子(きんす)銀子(ぎんす)を集め武将に与え、米を足軽たちに分配し、いくらかを戦いのために持参します。秀吉の対光秀の戦にかける意気込みが伝わってくるようです。
山崎で、光秀軍と戦う
8日は一日休んで9日朝、姫路城を出発。約80km移動して、11日には尼崎城に到着します。さらに12日は富田林に到着、池田恒興(姫路城を整備した池田輝政の父)や信長の重臣・丹羽長秀、高山右近などが合流します。
そして6月13日。いよいよ摂津と山城の国境、山崎の地で、明智光秀軍1万6000と相見えます。戦いは一日であっけなく終わり、光秀は居城である近江坂本城に落ち延びる途中、農民に竹槍で刺され、後に自刃。享年55。その後、秀吉の天下取りは加速していきます。