松平定知の「一城一話55の物語」

「尊王攘夷」を強硬に唱えた“最後の将軍”の実父 徳川斉昭は水戸城で日本の将来をどう描いたのか

水戸城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、徳川斉昭と水戸城です。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、徳川斉昭と水戸城です。

倒幕へのエネルギーとなった「水戸学」

徳川斉昭は最後の徳川幕府将軍・慶喜の実父です。徳川斉昭は第7代水戸藩主・徳川治紀(はるとし)の3男として小石川の水戸藩邸に生まれます。彼を教育したのが水戸学の学者だった会沢正志斎(あいざわせいしさい)です。水戸学は水戸黄門として知られる第2代藩主光圀が始めた『大日本史』の編纂に携わった学者が中心となった学問で会沢正志斎もそのひとりです。

水戸学を説明するのは難しいのですが、ひと言でいうと、天皇を尊び、その権威のもとに幕府を中心とした国家体制を強化するという考え方です。しかし、そこから「天皇が幕府よりも上だ、幕府はけしからん」という考えが起こり、倒幕へのエネルギーとなっていきます。

つまり水戸学が欧米列強の脅威に対するスローガン、尊皇攘夷に結びつき、倒幕への大きな力となったのです。ちなみに尊皇攘夷という言葉を初めて使ったのも徳川斉昭で弘道館の教育理念を表した『弘道館記』に出てきます。

弘道館正門 Photo by Adobe Stock

30歳で藩主に、全国の志士に影響を与える存在

それはさておき、水戸学をたっぷり教えられた斉昭は30歳で藩主となり藩政改革に取り組みます。具体的には当時最大の規模を誇った藩校、弘道館を設立し、門閥よりも人物本位で人材を登用しはじめます。また大規模な軍事演習を行うほか、ロシアの南下に備えての蝦夷地開拓や大型船舶の建造といった献策を幕府に行い、全国の志士たちに影響を与えるようになります。

嘉永6(1853)年、浦賀にペリーが来航すると、老中首座、阿部正弘に乞われて海防参与となりますが、斉昭は強硬な攘夷論を展開し、幕府を困らせます。なんと水戸藩所有の大砲74門と軍艦を幕府に提供するというから筋金入りです。しかし、結局は、ご承知のように幕府は開国、日米和親条約を結びます。当然斉昭は参与を辞任しますが、軍制改革参与として再び幕政につきます。

水戸城大手門 Photo by Adobe Stock

将軍後継問題で、江戸城に乗り込む

当時幕府の間では将軍後継問題が起こっており、井伊直弼グループは徳川慶福(よしとみ)を推し、南紀派と呼ばれ、徳川斉昭グループは息子である一橋慶喜(よしのぶ)を推し、一橋派とされていました。

そして、第14代将軍に慶福が決まると井伊直弼は大老に就任し、日米修好通商条約を締結します。朝廷を無視したやり方に怒った斉昭は江戸城に乗り込みますが、無断登城のかどで逆に謹慎を命じられてしまいます。

旧水戸城薬医門  Photo by Adobe Stock

水戸藩に下った前代未聞の密勅

ここから攘夷派の巻き返しが始まります。このままずるずる開国に進むことを憂えた尊皇攘夷派が朝廷に運動し、水戸藩に下った密勅を戊午の密勅といいます。

その中身は
(1)日米修好通商条約への呵責と説明の要求
(2)攘夷を推進するための幕政改革の命令
の2点でした。

将軍の臣下であるはずの水戸藩に勅書が渡されることは例がなく、蔑ろにされた幕府は権威が失墜しました。幕府の権威を取り戻すべく井伊直弼がとったのが安政の大獄です。そして斉昭もさらに重い永蟄居を命じられ、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された5カ月後、水戸で急逝してしまいます。

水戸城の大手橋 Photo by Adobe Stock

両雄が亡くなり、時代は……

両雄が亡くなってから、時代は転がるように倒幕に向かいます。

倒幕の原動力になったのが、水戸学に触発された雄藩の志士たちであったことは、歴史の皮肉といえましょう。

【水戸城】(別名・馬場城)
鎌倉時代にこの地を治めた馬場資幹(すけとも)が館を開き天正18(1590)年、佐竹義宣(よしのぶ)が近世の城郭に改めた。関ヶ原の戦いの後佐竹氏が秋田に追放され、家康の4男忠吉、5男信吉、10男頼宣と城主が替わった後、11男頼房が入る。仙台の伊達ほか東北に睨みを利かせる存在だった。石垣はなく土塁によって城は築かれ、三重五階の御三階櫓が天守代わりとなった。薬医門は唯一の現存建築物だ。
住所:茨城県水戸市三の丸
電話:029-224-0441(水戸観光コンベンション協会)

偕楽園 Photo by Adobe Stock

偕楽園
天保13(1842)年に徳川斉昭が造園。弘道館で勉学に励み、偕楽園で憩うことと一対で設計されたという。2月には約100種3000本の梅が開花し、楽しませてくれる。
住所:水戸市常磐町1-3-3
本園入園料:300円、小人150円
本園開園時間:7~18時(10月1日~2月中旬)、6~19時(2月中旬~9月30日)
電話:029-244-5454(偕楽園公園センター)

【徳川斉昭】
とくがわ・なりあき。1800~1860年。水戸藩35万石の第9代藩主。3男であったが、聡明さに加え藤田東湖や会沢正志斎といった尊皇派の学者たちの推挙もあって30歳で藩主となる。藩校・弘道館を作り、藩政改革を行うとともに、西洋列強の侵攻に備え、大規模な軍事演習を行うなど、強硬な尊皇攘夷派として知られた。開国と将軍後継をめぐり大老・井伊直弼と対立、永蟄居を命ぜられ失脚。最後の将軍、慶喜の実父でもある

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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