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薩摩に降伏

ところが慶長14(1609)年、薩摩の島津軍が3000人を超える大軍で琉球に侵入し、首里城も陥落。尚寧王(しょうねいおう)は降伏します。当時の薩摩藩は秀吉の朝鮮出兵による疲弊に加え、関ヶ原で西軍についたことから家康に睨まれ、江戸城普請を命じられるなど財政的にたいへん苦しい時でした。

いっぽう、徳川幕府も明との交易を望んでいました。鎖国のイメージが強い徳川幕府ですが、家康の頃は秀吉の時代に悪化した明との関係を見直し、貿易によって国を富ませようとしたのです。

そして、琉球を介し、16世紀半ばから途絶えていた日明貿易の再開を目論んでいたのです。そういった背景のもと、慶長11(1606)年、家康から島津家の当主・忠恒が諱(いみな)をもらって家久と改名した際に、琉球出兵の許可が下りました。

しかしこれは、家康側にすれば「貿易を可能にするためには武力を使ってもいい」というニュアンスであったのに対して、島津側はダイレクトに「戦争によって屈服させる」ととらえていました。

首里城の城壁 Photo by Adobe Stock

「琉球征伐」と「薩摩の侵攻」

薩摩軍は琉球王国の領土である奄美大島、徳之島、沖永良部島を攻略し、沖縄本島の運天港に上陸、今帰仁城を落とし、首里城も占領します。この薩摩の軍事行動を「琉球征伐」と呼びますが、琉球側は「薩摩の侵攻」と呼んでいます。

尚寧王は徳川幕府への臣従を誓うよう求められ、駿府城で大御所となっていた徳川家康と、江戸城では第2代将軍徳川秀忠に謁見し、琉球王として認めてもらう代わりに、徳川幕府への従属を余儀なくされます。

これ以降、琉球王国は明(後に清)、徳川幕府、薩摩藩と三国に従属させられるかたちとなります。特に薩摩藩は奄美諸島を直轄地にし、サトウキビの栽培を奨励し、黒糖貿易で大きな利益を上げるなど、厳しい搾取を続けていくのです。

首里城まで押しかけたペリー

嘉永6(1853)年、アメリカ海軍のペリー提督は、浦賀に向かう前に琉球に立ち寄って、開港を求めています。翌年、日米和親条約が結ばれると、琉米修好条約も結ばれました。琉球はかたちとしては独立国だったからです。

当時の琉球王国は第二尚氏王統第19代の尚泰王が治めていましたが、首里城まで押しかけたペリーをどんな目で見たでしょう。

首里城公園の様子 Photo by Adobe Stock
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松平定知
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