ジウジアーロとの運命的な出会い
いすゞは117クーペを開発するにあたり、フローリアンでの実績もありデザインをカロッツェリアギアに依頼。そしてそこでジョルジェット・ジウジアーロとの運命的な出会いがあったのだ。ジウジアーロは1965年にイタリアのデザイン工房であるベルトーネを退社し、その後ギアに移籍。117クーペのデザインはジウジアーロが手掛けたことは有名だが、いすゞがギアにデザインを依頼したタイミングとジウジアーロが移籍したタイミングが合い、ジウジアーロがいすゞ117クーペのデザインを担当することになったのだ。
いすゞとジウジアーロの関係が良好だったのは、初代ピアッツァのデザインをギア退社後に独立してイタルデザインを起こしたジウジアーロに発注していることからもわかる。
ショーで絶賛されたデザイン
117クーペのプロトタイプともいえるモデルは1966年のジュネーブショーでワールドプレミアされた。ギア・いすゞ117スポルトとして出展されたパーソナルクーペは世界が大注目。当時のジウジアーロのデザイントレンドとなっていた繊細で柔らかなライン、丸目ヘッドライト、美しいサイドビューなどを117スポルトも踏襲していた。
同時期にジウジアーロがデザインを手掛けた、フィアットディーノクーペ、イソリヴォルタ、マセラティギブリなどとも共通するデザインテイストが見てとれる。
ギアとのコラボとは言え乗用車の世界では無名と言っていいいすゞが公開したクーペのデザインは1966年のトリノショーの目玉と言っていいくらいに評価が高く、その年のジュネーブショーの『コンクール。ド・エレガンス』(ドとエをつなげてデレガンスとも表記)で大賞を受賞。さらにはイタリアで開催された国際自動車デザイン・ピエンナーレに出品されて見事名誉大賞を受賞するなど、デザインが高く評価されたのだ。
反響の大きさにいすゞがビックリ
そしていすゞはジュネーブショーの翌年に開催された東京モーターショー1967にギアの名前を除き、イタリア語表記のスポルトを英語表記に変更して『いすゞ117スポーツ』として日本で初公開した。
筆者は1966年生まれだから、117スポーツが公開された時はタイムリーには知らないが、いろいろな文献を漁ったところ、初代トヨタセンチュリー、日産ブルーバード510などと並び117スポーツの注目度はかなり高かったようだ。
117クーペは日本専用モデルとして開発されていたため、欧州で評価されても日本で話題にならなければそのままお蔵入りもあったのかもしれない。しかし日本でも大反響。肝心の東京モーターショーでの反響の大きさが市販化の決定打となったという。