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マイチェンで量産化

前述のとおり117クーペはハンドメイドによって市販化することができたのだが、1973年のマイチェンを機にライン生産に切り替わる。1971年にいすゞはアメリカのGM(ゼネラルモータース)と提携。資金援助、技術サポートなどにより実現したのだ。

そのためマイチェン後のモデルもデビュー時同様に丸目だが、リアコンビが大型化されたほかプレスしやすいように変更されるなどデザインは変わっている。

マイチェン後は同じ丸目でも横バーがなくなり、リアコンビも大型化されている

マニアの間ではデビューからマイチェンまでのモデルは特別な存在で「ハンドメイド」と崇める一方、1回目のマイチェン後のモデルは「量産丸目」と呼んで区別している。マニアから言わせれば「まったく別物」となる。

そのマニアから話を聞くと、117クーペのパーツのなかでインテリアのパーツ、ウインカーレバーやスイッチ類が欠品していて、流用するものもないので壊れたら自作するしかないという。

クラシックカーラリー、レースにも117クーペは参戦。写真は量産丸目

賛否両論だった角目

117クーペは2度のマイナーチェンジにより3つの顔が存在する。前述のハンドメイド丸目、量産丸目のほか、1977年のマイチェンで角4灯に劇的変更。角目により精悍なフロントマスクとなったが、特別感はなくなった。

実際に最後のマイチェン時には117クーペの新デザインは否定的な意見も少なくなかったようで、自動車雑誌『ベストカー』の1978年6月号の誌面では、『デザインの改悪は許さない!!』というテーマで、117クーペユーザーといすゞ自動車が激論を交わすなど喧々囂々あったみたいだ。

そのほか117クーペのトピックとしては、リア部分を延長してシューティングブレーク化した117クルーザーをいすゞは開発していたが、市販化されなかった。理由は実用性を得た代わりに117クーペの美しさが損なわれたからだ。

角目は精悍だが丸目オーナーからは不評だった

日伊合作の自動車開発の成功例

117クーペは1968年にデビューして、1981年6月にピアッツァにバトンチェンジする形で生産を終えた。その直前の1981年2月にデビューしたのが初代トヨタソアラ。1960年代の名車が、その後の日本車クーペの象徴となる初代トヨタソアラとごく短い間だがリンクしたのは感慨深いものがある。

117クーペは約13年のモデルライフで8万5549台を販売。日本専売の高級パーソナルクーペとしてはかなり健闘したと言えるのではないか。特に最初期のハンドメイドは、クルマというよりも芸術作品と言っていい一台だ。

117クーペは、日伊合作の自動車開発の成功例として評価され、2014年に『日本車殿堂 歴史車』として選定された。

117クーペは日本とイタリアの共同開発の成功例として評価されている

【いすゞ117クーペ主要諸元】
全長4280×全幅1600×全高1320mm
ホイールベース:2500mm
車両重量:1050kg
エンジン:1584cc、直4DOHC
最高出力:120ps/6400rpm
最大トルク:14.4kgm/5000rpm
価格:172万円(4MT)

【豆知識】
1962~1967年まで生産されたトヨタクラウン、日産セドリック、プリンスグロリアに対抗すべく開発されたいすゞの高級セダン。いすゞのオリジナル乗用車の第一弾モデルでもある。エクステリアデザインはイタリアのカロッツェリアギアが手掛けた。タクシー業界との関係もあって乗車定員は前後3人乗りの6人だったのも特徴だ。単なる高級セダンではなく、1963年の第1回日本グランプリで活躍し、いすゞの技術力の高さをアピールすることにも成功した。ただし、販売面ではそれほど爪痕を残せなかった。

ベレルはいすゞ初にして最後の高級セダン

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/いすゞ、ベストカー

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市原 信幸
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