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市販化への大きな壁

ショーモデルで絶賛されたデザインがいざ市販されてみると「なぜこうなった?」と首をかしげるようなケースは少なくない。デザインを手直しした結果、印象が大きく変わる、というのも珍しくない。ショーモデルはワンオフで生産性など考慮されていない。煌びやかに目立てばいいのだ。それに対し量産車はそうはいかない。

美しく世界的に評価された117スポーツのデザインだが、当時のいすゞにはそれをそのまま市販できるだけの生産設備も生産技術もなかった。どれだけ美しいデザインのクルマでも量産車として生産できなければ単なる作品、芸術品で終わってしまう。ジウジアーロも納得したうえで、生産性を考えてデザインが手直しされたというがそれでも量産化は難しいという結論だったという。

ハンドメイドモデルはリアコンピが小さくシシンプル

イタリアから職人を招聘

しかし、ブランドイメージを確立するために高級パーソナルクーペを切望していたいすゞの市販化に向けての執念は凄かった。いすゞとしては117スポルトの量産化のために新たに設備投資するというのは財政的に難しかった。ではどうしたか? いすゞはライン生産ではなく、ハンドメイドで外装を手掛けることに決定したのだ。117スポーツを量産するためにイタリアから多数の職人を呼び寄せた。この英断には今さらながら大拍手だろう。

ハンドメイドというと、金槌のような道具を使って鉄板をカンカンカンと叩いてボディを成型する、というマンガに出てきそうなものを想像するかもしれないが117の場合は、いすゞの工場のプレス機によりある程度までボディを製作し、職人が手作業で仕上げるというものだったらしい。しかし1960年代後半とは言え、日本メーカーでそんなクルマ作りをしているメーカーなど皆無だった。ハンドメイドゆえ数が作れず、初期では1カ月に作れるのは50台程度だったようだ。

細いピラー類、繊細なライン、エッジを出すために手作業で製作

車名の由来

量産化の壁もクリアして市販化が決定したいすゞの高級パーソナルクーペ。晴れて東京モーターショーの約1年後の1968年12月に正式デビュー。市販された時にはその車名は117スポーツではなく117クーペに変更された。

前述のとおり、117クーペはフローリアンをベースにクーペ化。フローリアンの開発コードネーム(呼称)が117セダンだったのに対し、117クーペという開発コードネームが与えられていて、それをそのまま車名にしたという。開発コードネームはメーカーによって通しナンバーだったり、個別に与えられたりとさまざまあるが、車両型式とは別物だ。117クーペの車両型式は、PA9系で、PA90、PA95などがある。

117という謎めいた数字の羅列も117に神秘性を加えるのにひと役買っていることを考えると、安直にフローリアンクーペとならなくてよかった。

真横から見ると美しさが倍加する
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開発コードネームが車名になったクルマ...
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市原 信幸
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