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空襲で焼失した神奈川駅

のちに東横線となる神奈川線には、今は存在しない駅が開通当初は2駅あった。終点の神奈川駅と新太田町(しんおおたまち)駅がそれである。神奈川は、東海道五十三次の宿場(神奈川宿)があった場所で、1872(明治5)年の我が国初の鉄道路線にも、すでに”神奈川駅”が存在していた。東横線の神奈川駅は、この駅に隣接した場所に設けられた駅で、ほかに京浜神奈川駅(現在の京浜急行電鉄)や、横浜市電も通っており、乗り換えが便利な”ターミナル駅”として誕生したのだった。

当時の省線(現JR)横浜駅は、東横線の旧高島町駅近くにあったが、1923(大正12年)の関東大震災で倒壊したため、現在の横浜駅の地へ1928(昭和3)年に移転した。この移転に際して省線の神奈川駅は、横浜駅に近いという理由から廃止された。このとき、東横線の神奈川駅も渋谷寄り(高島山隧道の出口付近)に移転した。

これと前後して、渋谷線(渋谷駅~丸子多摩川駅間)も1927(昭和2)年8月28日に開通しており、渋谷駅~神奈川駅間の直通運転を開始し、路線名も現在の「東横線」に改めた。この年の12月には、神奈川駅から高島駅間(旧高島町駅)の延伸工事に着手し、途中に省線との乗換駅となる横浜駅を建設した。

神奈川駅~高島駅間は、1928(昭和3)年5月18日に開通し、渋谷駅~高島駅の直通運転が開始された。この当時、省線の貨物駅として“高島駅”があり、乗客の混乱を避けるため同年8月3日に東横線の高島駅は、「本横濱駅」へと改称された。

その後、先の大戦による1945(昭和20)年5月の横浜大空襲により、神奈川駅は全焼した。7月には休止駅となり、それ以降、駅は復活することなく、1950(昭和25)年4月8日付で廃止された。

のちに東横横浜・目黒蒲田電鐡のWネームで制作された沿線案内(部分抜粋)=資料/市川健三コレクション
廃止になったあともプラットホーム跡が遺されていた「神奈川駅(2代目)跡」=写真提供/宮田道一コレクション(1959/昭和34年撮影)

3カ月間だけ存在した「博覧会場前駅」

今は存在しない東横線の駅として、東白楽駅(1927/昭和2年3月10日開業)と反町駅の間には、かつて「新太田町(しんおおたまち)駅」があった。丸子多摩川駅と神奈川駅間の開通と同時に開業した駅で、当初は地上に駅舎とホームがあった。1930(昭和5)年11月に線路の高架化とともに高架駅となった。その後、先の大戦による1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で被災し、6月1日から休止駅となり、翌年の5月31日に廃止された。

戦後の1949(昭和24)年になると、旧新太田町駅に隣接する土地(現在の反町公園付近/神奈川区反町1丁目)で「日本貿易博覧会」が開催された。この開催に合わせ、廃止になっていた新太田町駅の跡地に臨時駅として「博覧会場前駅」を開設した。同年3月15日から6月15日までの、わずか3か月間だけの”駅復活”であった。

駅跡は、東横線の高架線上に長らくホーム跡だけが遺されていたが、この付近が地下化されることに伴い、解体された。

東横線の高架線上に遺されていた新太田町駅のホーム跡。ホームがあった場所は、高架が拡がっていたため容易に確認することができた=写真/旧神奈川駅跡に掲示された現地案内板より(1995/平成7年ごろ撮影)
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