大人の愉しみ「そばがき」の時間
そばがきの注文が入ると、わざわざ調理場から出て、「お客さん、いま注文なさったそばがきだがね、どんなものかお分かりで頼んだのかい?」とある主人は聞きに行くことにしているという。
「思ってたのと違うよ、と残されてもなんだからね。わからないけど頼んでみようと思う若い人もいるし。確かめることにしてんだよ」
そう江戸っ子口調でいうのは、茅場町の交差点の角地にある『茅場町 長者庵』の4代目を務める吉田博昭さんだ。(※「吉」の字は本来、土の下に口)
創業は明治。縁は江戸時代まで遡れるこの地の老舗蕎麦の翁は、それでも「そばがきの注文が入ると嬉しいね」と言う。
「お。こりゃあ、蕎麦好きな人が来たのかな、とハッとするからさ」。
店によっていろんな工程の差はあれど、ざっと説明するとそばがきの作り方は以下のようになる。
殻付きの蕎麦の実を仕入れ、玄蕎麦脱皮機で丸ぬき(あるいはせずに殻付きのまま)、石臼(機械碾き)か手碾きで碾き、粉にする。
注文が入ると、小径の雪平鍋に入れ加水して、強火。カタカタと絶妙のリズム感で五徳に当てながら小鍋を振る。まるで独特なパーカッションを演奏しているような姿だ。
片方の手に持ったヘラでかいて(練って)いくと、あら不思議。粘り気が出てそばがきができる。「蕎麦団子」「蕎麦餅」といった風情だ。皿に盛るときの最後、イタリアンジェラートのように、ツイッととんがった形がヘラに残った。
熱が入り過ぎると風味が飛ぶので、細心の注意を払うのが腕のうち。タイミング、時間、熱の温度、当て感覚…。ひと目見て、熟練の技が必要なことがわかる。
これは、我々が普段「蕎麦」として食べている、いわゆる「蕎麦切り」(練った生地を包丁で細長く切る)よりも古くから日本人に食されている形で、麺状にして食べることが庶民に普及したのは元禄時代とされている。
ネパールの郷土料理にも「ディド」というそばがきがあって瓜ふたつ。やけどに気をつけてバターを塗って膜を作った指先でつまんで食す。噛む必要がないので、飲み込むのが現地流だ。つまり、あちらこちらで長く食べられてきたのだ。
蕎麦の実は、その昔は痩せた土地で育つ救荒食物とされたが、今は栄養価が高く風味のよい食物と評価が変わってきた。
「連作障害がある作物なので、大麦や菜種と交互に植えることもあります」と教えてくれたのは山手線の北側、東十条にある『一東菴』の主人、吉川邦雄さんだ。
彼がそばがきを愛する理由は、「水と粉だけで作る蕎麦の基本。これを食べれば、その店の力量がわかります。小鍋をカタカタと振る音が奥から聞こえてくれば、いい蕎麦屋かもしれませんね」
そばがきを出す店は蕎麦に自信があるから、『うちのそばがきを食べてみませんか』と心の内で思っているはず…という寸法だ。洋菓子のパティシエがシュー・ア・ラ・クレーム(シュークリーム)を食べるとその店の力量が丸わかりだというように、そばがきは、ごまかしの効かない店の素地が表れる基礎となる一品なのかもしれない。
「うちは粗碾き、手碾き、微粉とそのときに入っている粉違いで3種類出していますが、3つを立て続けにオーダーするお客さんもいます。あんまり注文が入ると、こっちの手首が壊れそうになるんですが(笑)」(前出・吉川邦雄さん)
浅草には次のように語る店主がいた。
曰く、「スピーディーに一気に練ると香りが落ちないです。強火全開です」。
証言するのは、浅草寺の北側、奥浅草の路地にある『丹想庵 健次郎』の店主・鈴木健次郎さんだ。山形の“そば寺”で修業したというこちらの店は、かぼちゃ、蓮根など季節野菜を添えた揚げ出しのそばがきが珍しい。添えられた薬味は粒味噌、じゃがペースト、わさびとこちらも楽しい。
「蕎麦の起源は寺にあり、という言葉があります。シンプルさが蕎麦の魅力だと思いますけど、その中でも、蕎麦切りに比べると、そばがきのほうが原始的です。蕎麦の香りを愛する人はそばがきを頼みますね。それに合わせて日本酒なんか頼んでくれた日にゃあ。こっちまで嬉しくなってしまいますね」
たしかに、菊正宗のような果実感のない日本酒だと、素朴な味わいがより引き立つ。止まらないかも!
そばがきの概要がわかってきたところで、結局、そばがきは主食なのかつまみなのか、いつ頼むのが粋なのか。3人の賢人店主に聞いてみた。
・「うちはつまみ!どんどん飲んでいただきたい。焼くと香ばしさが増して、酒が進みますし」(『丹想庵』鈴木さん)
・「いちばん最初の空腹のときに頼むのが理想です。酒のあてにしながら、真っ先に香りを楽しむ。僕なら塩で愉しみますかね」(『一東菴』吉川さん)
・「江戸っ子はチョロっとしたのが嫌い。うちは街場の蕎麦屋だから、全メニュー、ボリューム満点。昼はそばがきとせいろ、そばがきと天丼を食べる人もいる。夜はひとつ取って3人でつまむ人もいる。お好きにどうぞ」(「長寿庵」吉田さん)
そばがきのない人生もあるけれど……そばがきがある人生がよさそうだ。
撮影/小島昇(一東菴)、西崎進也(長寿庵)、鵜澤昭彦(健次郎)、取材/輔老心(一東菴、長寿庵、健次郎)
※月刊情報誌『おとなの週末』2025年12月号発売時点の情報です。
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