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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。フォーク歌手の高田渡(1949~2005年)は、1969~71年にかけて京都で過ごし、関西フォークの中心的な存在として活躍。その後は東京に戻り、吉祥寺界隈を拠点に独特の世界観を持つフォークソングを世に送り続けました。最終回は、おなじみの筆者によるベスト3の選曲。文末では、高田渡が筆者にそっと明かしていたアルバムの構想にも触れています。

アメリカン・フォークを研究

高田渡の音楽はピーター・ポール・アンド・マリー(PPM)などいわゆるモダン・フォークが人気となる以前のアメリカン・フォークがベースとなっている。シンプルなメロディーに生活を切り取った詩がのせられる。バンドを伴うことも時にあったが、基本ギター1本の弾き語りである。

1969年、西岡たかしの五つの赤い風船がレコードのA面、高田渡がB面というアルバムでデビューする前、ずっと高田渡は生活の歌であり、労働者の歌であるアメリカン・フォークを研究して来た。生活があって歌がある、労働があって歌になる。そのスタイルは生涯、変わることはなかった。

人にそれぞれ、生活があるように、人それぞれに高田渡に共感できる歌がある。だから、高田渡の残した楽曲の中から、極私的と言えども3曲を選ぶのは難しい。

現在にも通じる色褪せない名曲「生活の柄」

それでもあえて3曲を選ぶことにした。まずは高田渡の代表曲と支持する人も多い「生活の柄(がら)」1971年発表のアルバム『ごあいさつ』に収録されて以来、高田渡的スタンダードとなった詩は現代詩人の山之口獏。オリジナルのアレンジは日本語ロックの草分け、ジャックスのリーダーだった早川義夫が手掛けた

「コーヒーブルース」、「値上げ」など自作詩も優れていたが、現代詩人の作品に曲を付けるという試みの創始者でもあった。現在の生活人に伝わる、色褪せない名曲だ。

高田漣の父、高田渡は詩人であり、労働者で社会活動家だった。高田渡は実現不可能なことはあまり語る人ではなかったが、父親の詩を本にしたいとはいつも言っていた。ある時、できあがった詩集を見せてくれた。“これで俺も安心して死んでゆける”と言っていた。

実はぼくも10代終わりから20代初期にかけて詩を書いていた。友人だった内田樹、平川克美などと共に同人誌を立ち上げ、販売していた。寺山修司、吉本隆明などといった詩人、批評家にも送っていた。寺山修司は感想を送ってくれたり、会ってくれた。そういったことは高田渡に話していたから、現代詩の話もよくした。

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岩田由記夫
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