国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。連載「音楽の達人“秘話”」シンガー・ソングライターの谷村新司第4回では、伝説の歌手・山口百恵との思い出がつづられます。谷村が山口に提供した名曲「いい日旅立ち」はどのようにして生まれたのか。作詞作曲した作者自身の貴重な証言です。
山口百恵最大のヒット曲
谷村新司~チンペイさんが他のミュージシャンに楽曲提供した中で、最大のヒット曲のひとつが1978年11月にリリースされた山口百恵のシングル「いい日旅立ち」だろう。旧日本国有鉄道のキャンペーンソングとしてリリースされた。発売元のレコード会社調べでは100万枚以上をセールスし、累計では山口百恵最大のヒット曲と言われる。
“「いい日旅立ち」は頭のメロディーの部分は山口百恵さんサイドから発注される以前からずっとあったんです。いつか、自分の曲として完成させようと思っていました。百恵さんから初めて楽曲制作を依頼されてまず思ったのは、さださん(さだまさし)の「秋桜」 のことでした。さださんは同じフォーク出身のライバルであり盟友。さださんに負けない、「秋桜」以上の名曲を作りたいと思いました。 「いい日旅立ち」という言葉から、わりとすんなりと曲が形になりました。百恵さんは楽曲を頼まれる前から大ファンで、発注された時はやったぞと思いましたね”
“百恵さんとじっくりと話したのはレコーディング現場。それまでもお逢いしたことはあっても、お話はできなかった。天下の百恵さんにTV局などでバッタリ顔を合わせたからと言って、「大好きなんです」なんて言えませんよ”
テニスに夢中になったきっかけは「百恵さん」
この話は1979年晩秋のインタビュー時に出た。どちらかというと色白な方のチンペイさんは丁度良く日焼けしていたので、どこぞリゾート地に行ったのか訊ねた。
“最近、テニスにはまっていてね。この日焼けはテニス焼けなんです。何故、テニスに夢中になったかと訊ねたら、きっかけは山口百恵だった。
“百恵さんがテニスが好きとおっしゃったんです。で調べたら、(東京都)品川区にあるテニスクラブの会員だと分かった。そこでぼくもそのテニスクラブの会員になったんです。テニスなんて素人だからレッスン受けて、猛特訓しました。ぼくはどちらかと言うと文系人間だから、スポーツは新鮮でしたね。百恵さんと同じクラブに入ったのは下心があったんです”
そう言うとチンペイさんはニヤリとした。
“いや、偶然に百恵さんに逢えないかなと思ってね。で、逢えたら混合ダブルスとかできないかと夢想したりしてね。ぼくはすぐにイマジネーションを膨らませるタイプなんで、テニスを始めたばかりなのに、よし、百恵さんとダブルス組んで格好良いところを見せるぞとか思っちゃう。イメージと恋に恋するのがぼくの中で合体すると、もう止められなくなってしまうんです”