今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その48 「マギーへの贈り物」
出版社勤務の傍ら、ホームヘルパー制度を創設
1902年からイギリスの首相をつとめたアーサー・バルフォア卿は、大の勲章嫌い、後世に残る名言を残した。
「真に偉大な人物ほど、褒章に対してアレルギーが働く」
そもそも公僕が叙勲されること自体うさん臭い行為だと叫び、下院に対して役人への褒章を禁止する動議を提出したこともある。
わが国でも春秋に行われる恒例の叙勲の中に、おびただしい数の役人がひしめいて見苦しい限り、いまや公僕の定義は消滅した感がある。拝見するに、叙勲漁りの人物の顔、どこかゴキブリに似ている。
1916年にテキサスで生まれたマーガレット(マギー)・ウォルドランをひと言で紹介するならば、名もなき市井の勤勉な女性である。
1939年、ジャーナリストにあこがれた彼女は中堅出版社の「パリングス・プレス」に入社する。3年目、ようやく仕事に慣れた彼女に一つの企画が持ち込まれた。
「しばらくの間、バイロン・ネルソン氏が執筆中のレッスン書を手伝ってくれないか」
編集長の話を聞いて、彼女は躍り上がった。何しろテキサスはスコットランドに次ぐゴルフ天国で、アメリカのゴルフ史を築いたべン・ホーガン、サム・スニード、バイロン・ネルソンが健在であり、多くのゴルファーが彼らに教えを乞うために訪れて大にぎわい。1937年ごろには「ゴルフの梁山泊」の感さえあった。
なかでも、バイロン・ネルソンの凄さは別格だった。
血友病に似た奇病のため早くに引退したが、全盛時にはホーガン、スニードといえども足元に及ばず、1937年のマスターズで劇的な逆転優勝を遂げてトップの仲間入りを果たすと、1945年には3月8日の試合から8月4日に終わったカナディアン・オープンまで、なんとUSツアー11連勝の信じられない快記録まで樹立した。
しかもこの年、120ラウンドの平均ストロークが「68・33」、18ホールのベストスコアが「62」、72ホールのベストスコアが「259」、113試合連続出場して予選落ちなし、気が遠くなるような記録も残している。
「初めてネルソン家を訪ねたときの光景は、いまでも忘れません。あの伝説の人が、エプロン姿で台所に立ってオムレツを焼いていたのです。それから一緒に朝メシを食おうといって、私のパンにバターまで塗ってくれたのです。率直で飾り気のない人柄にびっくり、私はたちまちファンになりました。信じられないことに、それから1ヵ月後、仕事の合間にゴルフのレッスンまで受けるようになったのです」
1947年に刊行された『バイロン・ネルソンの近代ゴルフ』は、彼女の編集能力に負うところが大きかった。
「ゴルフをやるからには、アマチュア競技に出場しなさい。仲間内の馴れ合いゴルフでは絶対に上達しないと彼に言われて、テキサス州女子アマ選手権に出場したのが1967年のこと。それから毎年のように出場しました。でも1967年の7位が最高、本当にゴルフはむずかしいゲームですが、やればやるほどおもしろさに溺れて人生が充実したものになりました」
ご主人のピートと出会ったのも、テキサスのゴルフ場だった。彼は有能な弁護士として信望が厚く、また当時ハンディ3のトップアマとしても界隈に知られた存在だった。
出版社勤務の傍ら、マギーには成すべき事があった。
1946年ごろのテキサスには、孤独な老人のためのホームヘルパー制度が存在しなかった。この問題に関する書籍を編纂したのが縁、心やさしい彼女には放置できなかった。
いくつかの婦人団体と話し合い、ボランティアを募り、企業に基金の拠出も願い歩いた。さらには上院、下院議員も動かして州当局に働きかけ、1960年までにホームヘルパーの組織を作り上げると同時に、州予算を当初の3倍まで引き上げることにも成功した。
病気、孤独、貧困に喘ぐ人たちは、彼女の努力によって派遣されるヘルパーに「マギーの使者」なる愛称を献上した。勲章とは無縁だが、彼女が果たした功績には計り知れないものがある。