今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第12回目に取り上げるのは、初代いすゞピアッツァだ。
初代ピアッツァは117クーペの後継モデル
いすゞ117クーペは1968年12月に販売を開始。流麗なデザインを纏ったパーソナルクーペはいすゞのフラッグシップであると同時に、1970年代を代表する日本の名車であることに異論はないだろう。その117クーペの後継モデルとして登場したのが初代ピアッツァだ。
いすゞはその後継モデルを開発するにあたり、デザインをイタリア工業デザインの巨匠で117クーペのデザインの生みの親であるジョルジェット・ジウジアーロに依頼。
ジウジアーロの渾身作
初代ピアッツァのデザインを語るうえでは、当時ジウジアーロが執心していた、”Asso(アッソ:イタリア語でエースの意味)シリーズ”について触れておく必要がある。Assoシリーズは4人が快適に移動できるクーペで、さらに充分な容量のラゲッジなど実用性を備えたうえで、モダンで流麗なデザインを与えることをコンセプトにしていた。
そのAssoシリーズは第1弾が1973年のフランクフルトショー(ドイツ)で発表されたアウディ80ベースのAsso di Picche(アッソ・ディ・ピッケ:スペードのエースの意味)、第2弾が1976年のトリノショー(イタリア)で発表されたBMW3シリーズをベースのAsso di Quadri(アッソ・ディ・クワドリ:ダイヤのエースの意味)。
そして、Assoシリーズの第3弾でシリーズの集大成として1979年のジュネーブショー(スイス)で発表されたのが、初代ピアッツァの原型となったAsso di Fiori(アッソ・ディ・フィオーリ:クラブのエースの意味)だ。
実はこのAsso di Fioriという名前は、ヒュンダイポニーをベースにジウジアーロが特装したコンセプトカーに付けられる予定だったが、1974年のジュネーブショーでヒュンダイポニークーペコンセプトという名称で出展されたため、 Asso di Fiori を名乗れなかったという経緯がある。
Asso di Fioriのベースになっているのは初代ジェミニだったのだが、いすゞからジウジアーロに送られてから5カ月程度で公開されたそのスピードに今さらながら驚かされる。