×

気になるキーワードを入力してください

SNSで最新情報をチェック

ジウジアーロはクルマ以外もデザイン

ジウジアーロはイタリア工業デザインの巨匠で、数多くの名車を手掛けてきた。日本では同じく巨匠と呼ばれるセルジオ・ピニンファリーナ、マルチェロ・ガンディーニのことは知らなくても、ジウジアーロの名前を知っている人は多い。

ジウジアーロ氏と 初代ピアッツァの原型のAsso di Fiori

それはクルマ以外の日本製品のデザインを手掛けてきたから。ジウジアーロはパスタから電車までいろいろなデザインを手掛けてきたが、日本製品では1980年のニコンF3(伝統の赤ラインの元祖)、1983年のカネボウ(現カネボウ化粧品)のAVA(化粧品)、SEIKOの腕時計、1986年ブリヂストンのブルゾン(自転車)など、1980年代、日本ではちょっとしたジウジアーロブームとなっていた。

赤ラインのニコンF3はカメラ好き少年の憧れの逸品だった

東京モーターショーでの注目度はイマイチ1?

ショーで公開されたAss di Fioriはジウジアーロが手掛けた美しいエクステリアも評判になったが、調先進的なインテリアも驚かせた。その後、サイズなどを手直しして、同年に開催された東京モーターショー1979で、”いすゞX”という車名で出展された。しかし、この頃は日本初のターボ車となる日産セドリック(430型)ターボ、三菱ランサーターボ、三菱Σターボなどターボ車に注目が集まっていたためそれほど注目されず。

ショーモデルを忠実に市販化

ドアミラーからフェンダーミラーに変更された以外はショーモデルに忠実に市販化

東京モーターショー1979で公開されて2年弱、1981年6月に初代ピアッツァは正式デビューを果たした。いすゞXそのままのデザイン、インテリアということで衝撃的だったようだ。というのも、私はこの衝撃を経験していないからだ。

初代ピアッツァがデビューした時の記事をクルマ雑誌をいろいろ漁ってみたところ、「ショーモデルそのままに市販にこぎつけたいすゞに対し、ジウジアーロもさぞかしご満悦だろう」といすゞへの賛辞が並んでいる。

ショーモデルとの明らかな違いは日本ではドアミラーが認可されていなかったため、フェンダーミラーに変更されていることくらい。ただし1983年に解禁になったのを受け、初代ピアッツァもすかさずドアミラーに変更して元の姿に戻している。

1983年にドアミラーが認可されたのを受け原案に戻したかたち

本当に凄かったのはインテリア

ピアッツァのボディサイズは、全長4310×全幅1655×全高1300mmで、2L、直列4気筒DOHCエンジンとSOHCエンジンをラインナップしていた。後輪駆動(FR)のスペシャルティクーペという触れ込みだったが、私にはハッチバックにしか見えなかった。

初代ピアッツァ今見ても美しく見事なプロポーションだが、当時はその丸みを帯びた形状からマヨネーズと呼ばれていた

初代ピアッツァはジウジアーロデザインのエクステリアに話題が集中しがちだが、実は本当に凄かったのはインテリアだったのかもしれない。当時の先進性の証であるデジタルメーター(通称デジパネ)は初代ソアラが日本車初採用していたが、ピアッツァのデジパネはその表示が細かくレベルが高い!! さらに操作類をステアリング左右に集積させたサテライトスイッチのサイバー感は現代のクルマとしても通用するレベル。

43年前にデビューしたクルマのインテリアとは思えないほど今見ても違和感がない初代ピアッツァのインテリア

初代ピアッツァの先進的なインテリアの売りのひとつなのだが、ウィンカーレバー、ワイパーレバーすら排除されスイッチ化されていた。私も初めて初代ピアッツァを運転した時は面喰った。でもちょっと乗れば慣れて使いやすかった。

次のページ
カッコいいと美しいは別!?...
icon-next-galary
icon-prev 1 2 3icon-next
関連記事
あなたにおすすめ

この記事のライター

市原 信幸
市原 信幸

市原 信幸

最新刊

全店実食調査でお届けするグルメ情報誌「おとなの週末」。5月15日発売の6月号では、「うまくてエモい!…