1974(昭和49)年8月14日、静養先の那須御用邸(栃木県)から帰京する昭和天皇を狙った「お召電車爆破計画」(未遂)があったことを、知らない方も多いのではないだろうか。過激派「東アジア反日武装戦線“狼”」を名乗る犯人グループが、昭和天皇を、そのターゲットにすえた暗殺計画である。その後、同じ年の8月30日に起きた「三菱重工ビル(現・丸の内2丁目ビル)爆破事件」にも関係するこの計画とは、どのようなものだったのか。当時の事件記録とともに振り返ってみたい。
※トップ画像は、昭和天皇が私的な行事で使用していた当時のお召電車=写真/星山一男コレクション(筆者譲受所蔵)、1965(昭和40)年4月20日
計画未遂から1年後に朝日新聞がスクープで
お召電車を爆破するという大胆な計画が発覚したのは、犯行予定だった1974(昭和49)年8月から1年がたった時だった。犯行グループ「東アジア反日武装戦線“狼”」は、未遂に終わった爆破事件で使用するはずだった“爆弾”を使用して、新たな事件を起こした。同年8月30日に東京駅近くの丸の内オフィス街で起きた死傷者393人を出した「三菱重工ビル爆破事件」である。
逮捕された犯行グループを取り調べるなかで、お召電車を爆破しようとしていた事実が浮かび上がった。このことは、1975(昭和50)年9月20日付の朝日新聞がスクープしたことで、世に知られることになった。計画から発覚するまでの間には、上皇ご夫妻(当時は皇太子ご夫妻)の沖縄県訪問が行われ、1975(昭和50)年7月17日、慰霊のため立ち寄った「ひめゆりの塔」(沖縄県糸満市)で、現場に潜んでいた過激派2名が、お二人に向けて“火炎瓶”を投げつけるという前代未聞の事件も起きていた。これにより、皇室に対する警備など、厳戒態勢が取られたことは言うまでもない。
爆破計画の真相
なぜ、昭和天皇の乗るお召電車を狙おうとしたのか。そのきっかけは、犯行グループの思想信条にあった。理由は、「先の大戦を引き起こし、多くのアジア人を犠牲にした犯罪人を“処刑”することは、反日思想として当然」というのが、彼らの言い分であったという。
犯行グループは、事件の数年前から昭和天皇の動静を調べあげ、毎夏に那須御用邸で静養していることや、8月15日には全国戦没者追悼式に必ず出席していることに確証を得た。そして、その移動手段であるお召電車を爆破することをたくらんだ。さらに、那須御用邸から東京へ向かうお召列車は、毎年8月13日か14日に運行されていることも把握していた。爆破する場所については、東京都と埼玉県の境を流れる荒川を渡る「荒川橋梁」であったことが、のちの取り調べで判明している。