昭和天皇は、「第2回国民体育大会石川県大会」の開会式出席に合わせて、1947(昭和22)年10月23日から11月2日にかけて、福井、石川、富山の3県を訪問された。宿泊先は、福井県、石川県では豪商の別荘や旅館に7泊され、富山県だけは県庁舎に3泊された。各地では“郷土料理”が献立に並んだが、富山県では不足した「白米」に代わるものとして「代用食」を召し上がっている。この代用食とはどのような食材で作られたものだったのか、そのほかには何を召し上がったのか。その献立を垣間見ることにしよう。
※トップ画像は、蒸気機関車がけん引していた頃のお召列車=写真/星山一男コレクション(筆者譲受所蔵)
米原を経由し、北陸3県へ
1947(昭和22年)10月23日、午前7時35分に東京駅を発車したお召列車は、東海道本線を西下し、米原駅を経由して最初の訪問先である福井県の敦賀駅に17時6分、到着した。その車中では、浜名湖のあたりで昼食をとられたが、その記録は残されていない。おそらく、宮内府大膳職が調理した軽食だったようだ。
翌日からお召列車で、福井、金沢、和倉、高岡と北陸を巡り、10月30日には石川県金沢市で行われた第2回国民体育大会の開会式に出席された。その後、津幡駅からお召列車に乗り高岡駅へと移動され、その車中で昼食を召し上がっているが、その調理者や献立は残されていなかった。夕刻、その日の宿泊場所となる富山県庁へと入られた。
富山県庁での夕食は、県選出の料理人によって調理されたものが提供された。献立には、御汁(鯉古く/こいこく)、御飯、御丼(黄金焼わらさ、甘藷隠元金飩/あまいもいんげんきんとん)、御向(おむこう、昆布〆鯛、白髪栗/しらがぐり、山葵/わさび)、御皿(蒲鉾、輩翠銀杏/ひすいぎんなん、南瓜梅肉/かぼちゃばいにく)、御漬物(沢庵、胡瓜/きゅうり)、果物(柿)と記されていた(読みがな以外は原文ママ)。このなかには、代用食の文字は見られず、前日までの料理との“差”に気をつかったのであろうか。
代用食を召し上がる
富山滞在2日目となった10月31日は、国立病院北陸荘をはじめとする富山県内の各施設を視察された。昼食は、視察で訪れた富山県西部の立野ケ原開拓園でとられたが、献立は朝食ともども残されていなかった。
夕食の献立には、代用食として「煮込饂飩(にこみうどん)」と書かれ、そのほかでは御汁(澄シ、白海老真薯/しろえびしんじょ、なめこ)、焼鮭(小蕪/こかぶ、人参)、似鱚櫻干(にぎすさくらぼし、烏賊黒酢/いかくろず、里芋田楽)、自然薯(菠薐草/ほうれんそう)と記されていた(読みがな以外は原文ママ)。
ここに見る献立は、後年の巡幸と比べても品数も少なく、当時が“食糧難”であったことが、このことからも読み取れる。