需要と供給のように、家事と家電は密接な関係にある。家電があるところに家事が湧き、家事のないところに家電は立たない。だいたい家事がないと家電はスイッチすら押されないし、家電があってはじめて家事が可視化されることもある。いわゆる「見えない家事」というやつだ。
■私たちは頭の中に「見えない家事」を抱えている
冷蔵庫はもちろん食材を家で維持保管することにより、炊事をサポートする役割の家電である。だが一方で冷凍スペースを巨大化した冷蔵庫が現れることで、これまで炊事を担当する人がいかに作り置きや冷凍食品を駆使して炊事を取り回してきたかが、目にみえるようになる。
あるいはエアコンは部屋を快適な温度にする家電だが、内部を自動で清掃する機能がついたがために、これまでエアコンの中を黙々と掃除していた人の存在が浮き彫りになる。空気清浄機なんて導入したとたん、部屋の空気はきれいになるものの、フィルターのお手入れという見えない家事がひっそり追加される。掃除機のカップに溜まったゴミの行方なども、それに類する家事だろう。
いずれにしろわれわれの生活を維持するための家事は、膨大にある。しかし手付かずのまま存在し続ける家事は、ひとつもない。だれかがやらないとそれはなくならないのだ。すべての家事は、人知れず手をつけた人のおかげで解消され、おかげで私たちは、エントロピーの法則にかろうじて抗うことができているのだろう。そうでなければ私たちの生活は、もっと容易にゴミ屋敷へと転じてしまうはずだ。
家電は家事の軽減を謳う。時間の短縮を謳う。あるいはハードルの低さを謳う。私も同じく謳う。お客さんに家電の便利さを謳って、購入を促す。家電はたしかに、あなたの生活を楽にする。そこに山があるから登山家が登るように、そこに家事があるから、家電メーカーは登るのだ。しかし私は家電の便利さを謳いながら、その家電と交換するようにふらりと現れる、見えない家事へこれから捧げるだれかの気配りが頭を過ぎる。家電でなんとかなる家事なんて、いまだ一部なのだと思う。
ところで見えない家事とは、具体的なタスクを指すだけではない。「そのタスクの存在を思い続ける」ことや「そのタスクをこなすための決断に考えを巡らす」こともまた、見えない家事ではないか。頭の中のことだから、文字どおり「見えない」わけで、その見えなさこそ、家事をシェアするむずかしさを表しているのかもしれない。
そもそも仕事でも人間関係でも、問題が「頭にある」ことが悩む行為の大半を占めるわけで、見えない家事も実はそうとう、私たちの時間を占有しているのだろう。そう考えると、家事は実際に稼働する時間のみで測られるものではないことがよくわかってくる。家事のコスパもタイパも、そう単純なものではないのだ。
私たちは頭の中に「見えない家事」を抱えている。それは毎日、「今晩のごはん、なにを作るか」の決断をくだす人なら、深くうなずいてくれるはずだ。決断をくだす人が往々にしてイコールごはんを作る人であることを除いても、なにを作るべきかを決めるにはさまざまな検討を経る必要があり、そこにかなりの「しんどさ」が横たわっている。
具体的にいえば、冷蔵庫の中身と在庫の状況、家族の好みや体調、その日の昼食や前日の献立、あるいは食卓につく家族の時間差を考慮して、高度な決断は毎日繰り返されるのだ。仕事帰りのスーパーで見られる無数の思案顔は、まさにその見えない家事を進行形で行なっている人たちの姿だと思う。
だから私は一時期、毎日15時を過ぎるとツイッターで「きょうの晩ごはんおしえて」と質問を投げかけていた。なぜならその時間くらいから、私は献立を決める思考を巡らせることに嫌気がさしていたからだ。いっそだれかの決断に乗っかるほうが楽ではないか、と考えたのだ。それは案外というか案の定というか、毎日多くの決断が寄せられ、そして多くの人に感謝された。私は毎晩、だれかの決断をパクって、その日の献立を決めていた。同じ人がそこにたくさんいた。