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カツ丼のルーツに思いをはせる

手元の『ベストオブ丼』(文春文庫ビジュアル版)及びネットで得た情報を参照すると、我が国におけるカツ丼の発祥には諸説ある。大正10(1921)年、早稲田高等学院の学生、中西敬二郎(けいにろう)さんが考案した、というのが定説になっていたが、『ベスト〜』では大正2(1913)年、早稲田鶴巻町(つるまきちょう)の食堂の主人、高畠増太郎さんが東京で開かれた料理発表会で創案のソースカツ丼を披露したのが始まり、との説を挙げている。なお、このお店は現在、福井で「ヨーロッパ軒」として数店舗を展開し、地元で根強い人気を誇っている。

カツ丼と言えばこれらソースカツ丼ではなく、丼飯の上に卵とじトンカツを載せたものが我々の頭にポッと浮かぶが、これの元祖はこれまた早稲田にあった蕎麦店「三朝庵(さんちょうあん)」(2018年、惜しまれつつ112年の歴史を閉じた)だったとされる。この料理が生まれたのは大正7(1918)年頃というが、正確なところは分からない。

ところが、ですよ。この入谷の「河金」、ここも大正7年に浅草で、トンカツやカレーを出す屋台として始まったんだけど、名物の「河金丼」はカツカレー丼なのだ。つまり前掲のカツ丼発祥の諸説と遜色ないことになる。もしかしたらこのカツカレー丼こそ、我が国におけるカツ丼の隠れた元祖かも知れないのだ。どうです。俄然、興味が湧くでしょう?

入谷の鬼子母神にお参り 実は「恐れしたや」?

「入谷の鬼子母神」こと「真源寺」

まぁでもせっかく来たんだから、まずは「入谷の鬼子母神」こと「真源寺(しんげんじ)」にお参り。

鬼子母神は元々インドの夜叉神の娘で、一説には500人とも1000人ともいう、とにかく多くの子供を産んだ。ところが性格は暴虐そのもので、これだけの子供を育てるには栄養が要るということで人間の幼児を捕らえては、食べていた

見兼ねたお釈迦様は過ちを正してやろうと、鬼子母神の末の子供を隠してしまう。彼女は半狂乱になって世界中を捜し回るが、7日間かかっても見つからない。とうとう釈迦に許しを請うた。

「1000人の子供を持ちながら中の一人を失っただけで、お前はそれだけ嘆き悲しんでいる。ならばお前のせいで、ただ一人の子を失った親達の悲しみはいかばかりと思うか」

釈迦に諭され、自らの過ちを悟った鬼子母神は以降、仏法の守護神となり子供や安産の守り神となった、という。

ここは江戸時代、地名と掛けて「恐れ入りやの鬼子母神」として親しまれた。ただし実は、住所的には台東区下谷(したや)に当たるんだって。「恐れしたや」じゃシャレになりませんもの、なぁ。役所も住所を割り振る時、もうちょっと融通を利かせてくれればよかったのに。

寅さん所縁の小野照崎神社へ

小野照崎神社

ただこの地に来たらもう一つ、行っておいた方がいい場所がある。それが、ここ。小野照崎(おのてるさき)神社。境内の富士塚(富士山に見立てた人工の山)も有名だけど、何とここ、「寅さん」所縁の神社でもあるのですよ。

俳優、渥美清がまだ売れなかった頃、ここに熱心に参拝し「大好きなタバコも断ちますから、仕事を下さい」と願を掛けた。そうしたら本当に数日後、「寅さん」のオファーが来たのだという。渥美清は心から感謝して以降、ここのお守りをずっと大切にしていた。そう、寅さんがいつも首から提げていたのは実は“産湯を使”った帝釈天ではなく、このお宮のお守りだったんですね(笑)。

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100年の歴史と重み カレーが掛かってるのにカツの衣はサック...
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西村健
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