養子に出されて静岡県三島へ
小学校3年が終わる頃、母からいきなり静岡県の三島に住む叔母の所に行けと言われ、訳もわからないまま養子に出されました。今度は三島市立東小学校に転校です。叔母に子供ができなかったという事情だったのでしょうが、当時はそれほど珍しいことじゃありません。転校した当初は、東京弁をからかわれ、こっちも「ずら」や「だら」といった語尾になじめず、よくいじめられました。
この年は東京タワーの完成、皇太子殿下(現上皇)の御成婚と、子供にも印象が強い出来事が多かった年です。やっと慣れた頃に、伊豆半島を狩野川台風が襲いました。叔父は私を引き取ったときに、狩野川の近くに家を新築したのですが、いつもは富士山が額縁の絵のように見える窓から、恐ろしい勢いで濁流が流れて行くのがよく見えました。1キロほど下流では橋が流され、いつ堤防が決壊するかと怖くてたまらなかったことをよく覚えています。
三島は気候が温暖なところで、川で魚を獲り、山では鳥を獲る、自然に囲まれて遊ぶ日々は天国のようでした。ところが、いいことは長く続かず、小学校を終える頃に、叔母に待望の子供ができて、東京に戻されることになりました。いやはや忙しい人生です。
当然、上野に戻るのかと思ったら、母は中野鍋屋横丁で寿司屋を開いており、またまた知らない土地での暮らしが始まります。
三島では東京弁をからかわれていじめられたのに、今度はすっかり染まった静岡弁をバカにされ、中野の中学では教室の隅っこで小さくなっていました。今度はそれに目をつけられていじめっ子にからまれますが、かっときて暴れたら勝ってしまい、それからは一目置かれるようになります。クラブ活動は柔道部に入り、友だちも増えますが、子供らしく勉強と遊びで一日が過ぎて行くのは、この年が最後になりました。
中学に入学すると寿司屋の小僧に
私の人生最大の転機がやってきます。年が明けて、母が寿司屋、父が魚河岸の仲買という我が家に、修業に出ていた兄貴が戻り、家業の寿司屋を継ぐことになったのです。母と、一緒に暮らしていた姉は上野に戻り、店は兄貴と私で切り盛りすることになりました。その日から生活は激変しました。夕方の五時から夜中の零時まで、毎日下働きする羽目になったのです。
昭和35、6年頃の寿司屋の下働き。まず、前日お客さんが使った割り箸をとっておいて、これを燃やし、火鉢の練炭の火熾しに使います。そこに大きなやかんを載せて湯を沸かし、お客さんのお茶をいれます。冷蔵庫はまだ電気冷蔵庫はなくて、氷室から買った氷を入れるタイプのもの。ネタケースの中にも氷を入れ、その上に、「ぎんす」を敷いて魚を並べます。まだ、この頃は、おしぼりはありません。
13歳の小僧が、たった1人の下働きとして働くわけですから、そりゃあたいへんでした。まだ義務教育だからちゃんと学校にもいかなきゃいけない。夜はお客さんの相手をして、仕事が終わるのは零時を回る頃です。朝はどんなに眠くても、遅刻しないように学校にとんでいく。店でお客さんにからかわれてムッとすれば、兄貴にどなられる。手は水仕事であかぎれになり、人前で手を出すのが恥ずかしかったのを思い出します。
中学3年生になると兄貴に叩きこまれて、お客さんの前でも握るようになります。近所に住んでいた学校の先生が食べ来てくれて、しきりに「家の手伝いをしてえらいなあ」と褒めてくれるのですが、本人としては嫌で嫌で仕方がありませんでした。
当時はどの寿司屋でも出前はかなり多く、1日に100人前くらいは出ました。配達に行く途中で友だちに出会い、話し込んでいるうちに出前が遅れ、お客さんがかんかんになって、兄貴にこっぴどく叱られたり、雪の日に、配達に行った家の目の前で滑って転び、寿司を庭中にばらまいたこともありました。周りの友だちはまだ好き勝手に遊んでいる年頃ですから、ただひたすら辛かった。でも、家業ですから、逃げるわけにもいかなかったんです。
当時の築地の魚河岸は「2」のつく日が休みでした。家の寿司屋は日曜が定休日でしたが、「2」のつかない日曜は父がしていた仲買の仕事を手伝うことになりました。いやはや、自分でいうのもおこがましいのですが、ホントによく働きましたね。
その頃のことで思い出すのは、兄貴と一緒に銀座「みゆき座」で観た映画『駅馬車』。名優ジョン・ウェインの代表作です。兄貴の背広を借り、ワクワクして観た映画が余程心に残ったのか、それから洋画が好きになってよく観に行くようになりました。
東京オリンピックが開催されたのが、私が高校2年のときですから、中学、高校に通っていた頃は、東京の町が大きく変わっていった時代に重なります。バラックがどんどん取り壊され、掘割が埋められ、道路の舗装が進み、高速道路が空を走る。都市全体が建設ラッシュですから、近くの青梅街道や甲州街道をダンプが我がもの顔で走っていました。
当時の人気スポーツはプロ野球にボクシング。ONのホームランや、ファイティング原田、「カミソリパンチ」海老原博幸のタイトルマッチに日本中が熱狂していました。プロレスもまだ盛り上がっていましたね。高校に入った年の冬、人気絶頂の力道山が赤坂のナイトクラブで刺されたというニュースを聞いて驚いたことはよく覚えています。