浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎の「勇気凛凛ルリの色」セレクト(9)「ふたたび鬼畜について」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第9回は、2022年に本土復帰50年を迎えた沖縄のこと。日本を防衛する自衛隊の一兵卒だった経歴を持つ作家は、日本を守るために駐留しているはずの米軍の兵士が12歳の少女に為した暴虐に対して何を思ったか。

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「ふたたび鬼畜について」

12歳の少女を襲った鬼畜ども

その夜、少女は近所の文房具店にノートを買いに行った。

買物をおえ、交叉点で信号待ちをしていた少女は、突然3人の屈強な米兵に拉致された。車に押しこまれ、目も口も手もガムテープでぐるぐる巻きにされて、1.5キロ離れたひとけのない農道へと連れ去られた。そしてーこんないまわしい言葉は書くことだに辛いが、12歳の少女は怪物のような三人の米兵に、かわるがわる強姦されたのである。

1時間の後、少女は血まみれの体をひきずって民家に救いを求め、そこから自宅に電話をした。

これは、わが日本にいつに変わらぬ日常の中で起こった事件である。「遺憾に思う」などという政治用語は聞きたくもない。

考えてみてくれ。文房具店にノートを買いに行った少女が、無理無体に拐(さら)われ、異国の兵士たちにぼろぼろに凌辱されて捨てられたのである。こうした極悪非道の鬼畜にも劣る犯罪について、あたかも貿易交渉に際して使われるような「遺憾に思う」などという言葉は誠に不適切である。

事件というものは何につけても同じだが、被害者の立場に立ち、その苦痛を理解しようとしなければ何ら本質的な解決を見ない。「遺憾に思う」という為政者たちの発言には、こうした認識が徹底的に欠けている。

少女が凌辱され捨てられた場所は、見渡す限りのサトウキビとイモの畑であった。どうか彼女が泣きながら真暗な畦道(あぜみち)を歩いて行く姿を想像して欲しい。苦痛と恐怖でいっぱいになった少女の胸には、安保も地位協定も、米兵の隊員教育もくそもないのである。政治家も兵士もジャーナリストも、遺憾に思うよりまず、引き裂かれた少女の後を追って、真暗な畦道を歩かなければならない。

ところで、遊説先でこの事件に対応したクリントンの姿を、読者はご覧になったであろうか。もし私の見まちがいでなければ、彼はなぜか背後にジャズ・バンドを従えたステージの上で、例の世間知らずのお坊っちゃまスマイルをふりまきながら、こう言った。

「怒りを感じており、事件を極めて遺憾に思う」、と。

私はそのとたん思わず徹夜明けのベッドからはね起き、「てめえが怒る筋合いじゃねえだろう、この唐変木!」と、罵(ののし)った。

ここで週刊現代を購読なさっている米国人読者のために注釈を加えておく。「唐変木」とは東京の下町方言で「もののわからない無知で非常識なやつ」あるいは「まぬけ」「わからずや」「クレイジー」、さらに的確に言うなら「教養も良識もないまま図体ばかりデカくなったみっともない大木」のことである。

強力な対抗馬の出現に恐れをなしたクリントンは、遊説中に深刻な顔を見せてはならないのかも知れない。だが、あの一瞬の画像を目撃した日本国民は、全員が米国大統領に対する信頼と友情を失った。そしてたぶん、同じ年頃の子供を持つ米国民も同じ印象を得たにちがいない。そう考えれば彼は、やはり唐変木である。

米国人の差別的優越感

さて、怒りにまかせてさらに筆を進める。

つらつら思うに、ひょっとして米国民の多くは、未だに日本およびアジア諸国に対して、差別的優越感を持っているのではあるまいか。

さきの「クリントン唐変木説」はけっこう自信があるので断言したが、これはあくまで個人的仮説であるから、少々トーンは落とす。

私はかつて陸上自衛隊に在籍し、心身ともに厳しい教育を受けた。自衛隊では肉体の鍛錬とともに、服務規程や精神教育を徹底して行う。新隊員は1日に数時間、一般部隊においても週に数時間の座学時間を設けて、自衛官としての心構え、すなわち修身道徳を学ぶのである。たまに妙な宗教に走る不心得者もないではないが、その結果わが自衛隊員は総じて真面目である。総人員に対する犯罪率を考えても、ほとんど驚異的な真面目さであろうと思われる。なにしろ自衛官は、警察官よりも事件を起こすことが少ないのである。

そもそも軍隊は、遠くナポレオン・クラウゼヴィッツの時代にその組織的完成を見ている。以後各国の軍隊は機能的な原型はほとんど変えることなく、むしろ兵器の開発と兵士の質的向上の点に於(おい)て進歩をとげてきたと言える。存在のよりあしはともあれ、先進諸国の軍隊に、今や社会良識をわきまえぬ兵士はいないはずなのである。

少なくとも自衛隊にはいない。徒党を組んで無差別に婦女子を拐(かどわか)し、暴行を加えて畑に捨ててくるような兵士は一人もいないと断言する。

本当は米軍にもいないはずなのである。自衛隊と同じ完成された軍人教育によって錬成され、しかもより大規模で、名誉も矜(ほこ)りも完全に与えられている合衆国軍人に、そんな不逞(ふてい)の輩(やから)がいるはずはないと思う。

だが現実に、彼らは犯罪をくり返している。

1991年の4月には2人の海兵隊員が沖縄県内の5ヵ所で連続強盗を働いた。

同年6月、沖縄市の公園で2人の兵士と1人の軍人家族が日本人を刺し殺した。

1992年1月には海軍の下士官が77歳のスナック店主を襲い、金を強奪した。

1995年の5月には24歳の日本人女性が4人の海兵隊員に待ち伏せされ、うち1人にハンマーで殴り殺された。

その他、米軍人の横暴は露見しているものだけでも枚挙に暇(いとま)なく、今回の女児暴行事件も、実はその一つに過ぎないのである。

まさか彼らが、これと同じことを本国でやっているとは思えない。もしそんなことがあるのなら、軍紀そのものがアメリカの社会問題として日本にも伝わってくるはずである。だとすると、彼らは本国を離れた駐留先でのみ、事件をくり返していることになる。

私が、米国人の差別的優越感の存在を疑う理由はこれである。

信じたくないことではあるが、もし仮にそうした差別主義によって合衆国のリベラリズムなるものが形成されているとするなら、われわれは現在の世界観も、過去の歴史もすべて見直さなければならないことになる。

私が、クリントンを唐変木だと罵った理由は、すなわちこれである。

絶対に信じたくないことではあるが、もし仮に彼と彼の軍隊がアジアに対する差別主義をひそかに抱いており、その必然の結果として無辜(むこ)の日本国民が殺傷されたとするならば、彼らが広島や長崎に投下した原子爆弾にもそれなりの意味を見出さねばならないことになる。

50年の時を経てこうした仮定を試みることは、1人の日本人としてほとんど恐怖を感ずる。しかし仮定が容易であるのにひきかえ、私には差別主義の存在についての論理的な否定が見出せない。だからこそ、こんな怖ろしい仮定を思いつかせたクリントンの薄ら笑いと軽薄なコメントを、唐変木だと罵るのである。

私はまさか今さら、世界を相手にして戦ったあの戦争が、人種差別をめぐる義戦であったなどとは思いたくない。ましてや義のための戦(いくさ)がたった2発の原子爆弾で敗れてしまったなどとは、考えたくもない。

少女が示した矜りと人間の尊厳

米兵に凌辱された12歳の少女は、後日いまわしい犯行現場の検証に立ち会った。そのとき彼女は、けなげにも捜査員に対し、こう言ったそうだ。

「私のような犠牲者を二度と出したくないから、きちんと訴えます」、と。

やはり彼女には、安保も地位協定も、米軍の隊員教育もくそもないのである。12歳の少女は日本国民の矜(ほこ)りと人間の尊厳を賭けて、きっぱりとそう言ったのだ。

復帰以来、沖縄における米兵の刑法犯罪は4500件も発生し、うち殺人事件は12件にのぼる。

仮設はさて置くとしても、在日米軍の6割の兵士を沖縄が一手に引き受けた結果がこれだ。少なくともこの現実は、日本政府の沖縄県民に対する差別であろう。

事件は両国の政治的思惑を踏み越えて、国際連合に上程されるべきである。

どうかさきの少女の発言を、もういちど読み返して欲しい。

50年目の戦場に立った少女は、決して白旗を掲げてはいない。

(初出/週刊現代1995年10月21日号)

ベタ記事だった全国紙の第一報

1995年9月9日(土)に起こったこの事件の、大手全国紙の第一報は、社会面のベタ記事でとても小さな扱いだった。読んだ瞬間、かっと頭に血が上った。「こんな小さな扱いで報じる事件じゃないだろう」と。

全国紙に限らず、本土のほとんどのメディアの、この事件直後の反応は鈍かった。

そして、翌週、浅田さんから送られてきたのが、この原稿だった。連載開始から約1年。まだ『蒼穹の昴』も『鉄道員』も刊行されていない新進の作家だった浅田さんだが、沖縄の少女の勇気に真摯に応えてくれた。

この原稿が書かれたのは、戦後50年、沖縄の本土復帰から23年目の年だった。あれから27年。沖縄には、いまだ日本に駐留する米軍基地の7割が集中し、米軍の治外法権を容認する日米地位協定は一字一句改訂されていない。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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