「あそこまで歌が巧い人は知らない」
普通、シンガーと呼ばれる人が街のカラオケに行ったという話をあまり聞かない。しかし、中森明菜が六本木や赤坂のカラオケ・ショップに行ったという目撃談は、何度もぼくのところに届いていた。音楽シーンは狭いのでそういった話はすぐに伝わる。
1980年代の終わりごろ、六本木のカラオケ・ショップで隣室になったというレコード会社の社員は、その模様を教えてくれた。スタッフと思しき人たち数人とやって来た中森明菜は、2時間ほどずっと歌っていたという。歌うのは昭和の歌謡曲。彼女の年代には馴染みの少ない曲でもとにかく歌いまくっていた。
隣室となった彼らは、自分たちはカラオケするのを止め、漏れ聞こえて来る中森明菜の歌に圧倒されていた。親しかった彼いわく、“ぼくも一応、音楽のプロだけどあそこまで歌が巧い人は知らない”。
中森明菜を全世界デビューさせたい
話は飛ぶが1980年代末、オーストラリアに行った時の話だ。そこでアメリカから出向していたweaというレコード会社の社長と会食した。音楽業界のV.I.Pらしく、彼は世界中の、もちろん日本のヒット曲も聴いていた。
そこで、“Akina Nakamori”はどういう活動を今してる?”と訊かれた。彼が言うには自分がアメリカの本社に復帰したら、中森明菜を全世界デビューさせたいと願っている、彼女の声は本物のソウル・ヴォーカリストの持つものだとのことだった。
そう、彼女には、彼女の声には歌の女神が宿っている。それもかなり強力な女神で、全世界デビューを果たせなかったが、だからこそデビューから40年が過ぎた今も多くの人を虜にしているのだ。
岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約400万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。最新刊は『岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門 音楽とオーディオの新発見(ONTOMO MOOK)』(音楽之友社・1980円)