作家と編集者の関係を例えると……
女史は言う。
「恋の終わりに際して、泣き、騒ぎ、じたばたとするのは決まって女性ですが、別れたあとでうじうじと考え続けるのは決まって男性なのです。女性は新たな恋愛を体験すれば、記憶を喪失しますが、男性は記憶を積み重ねます♠」
ううむ、と私は唸った。まさに恋愛小説の核心的テーマである。
ちなみに女史は長い編集者生活の結果、話す言葉まで文章化してしまっており、語尾には♡が付かず、♠が付く。
しばらく考えたあとで、私は疑問を口にした。ちなみにそのときの私は徹夜で書き上げた連載小説のモードのまま、妙な言葉を使用していた。よくある現象である。
「ほしたら、何やねん。セックスと逆やんか」
「は? どういうことですか♠」
「つまりやな、男はそのあとでカラッと忘れるやろが。女はいつまでェも、うじうじと余韻を楽しむやろ。ちゃうか」
女史はあからさまに侮蔑の目を私に向け、こいつがあの『蒼穹の昴』を書いたのと同一人物であろうか、というような顔をした。
「お答えします。浅田さんのご指摘はいわゆる生理学上の問題でありましょう。男性は種を維持するために行為のあとはさらなる行為へと移らねばならず、同様の理由から女性は受胎を促進するために肉体を安定させていなければならないのです♠」
「……さよか。せやけど、恋愛いうのんも、つまるところは生理学上の問題やあらへんのかいな」
「それは、ちがいます♠」
「どうちゃうねん。おせてや」
「恋愛を生殖行為の延長、すなわち知的進化をとげた発情だとする浅田さんのお考えは、人類の尊厳をあやうくします♠」
「そら、おかしわ。うちのパンチ君かて、お散歩の途中で牝犬に会えば、クンクンいうてラブコール送るで。犬も人もおんなしやろ」
「あの、浅田さん──」
と、女史は武闘派の目で私を睨みつけた。
「大変失礼なことを申しあげますが、もしや浅田さんは、愛の言葉を口にしたことがないんじゃありません?♠」
「え? ……いや、そないなことないけど」
「作品の中でも、愛の言葉を意識的に割愛してらっしゃいませんか。あるいはそういうところだけ、あえて象徴的な描写になさってらっしゃいませんか♠」
「……さ、さよか」
「ベッドに入ったあと、一行アケでみずいろの朝が訪れ、小鳥が鳴きませんこと?♠」
グウの音も出なかった。一行アケでみずいろの朝が訪れるというパターンは、たしか10回以上やらかしている。
愛していると口に出せない私の性格は、べつだん男性としての欠陥ではあるまい。ただし、その性格を仕事の中にまで持ちこむのは、私の作家的欠陥であろう。
「作家には勇気が必要だと思います♠」
「はあ……そやね。ごもっともや」
袋小路に追いつめる感じで、女史はとどめをさした。
「では、次回の短篇は、目のさめるような恋愛小説、ということで。よろしくお願いします♠」
小説家と編集者の関係は、ボクサーとトレーナーの関係そのものだと、三島由紀夫は言った。名トレーナーはボクサーの技術的欠陥を矯正し、やがてチャンプにする。
列車がトンネルに入った。暗い窓に映る私の顔は、およそ恋愛とは縁遠い。だが、おのれの趣味や性格に妥協して仕事をするほど、私は老いてはいないと思った。
作家には勇気が必要だと、トレーナーはリングサイドから叫んだのだ。
恋は遠い日の花火ではない。
(初出/週刊現代1996年8月17日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。