1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第49回。少年の頃、若気の至りで親友を失った。30年後、サイン会の会場での邂逅によって、「論語」の中の一節が作家の胸に深く染みわたる。
画像ギャラリー「旧友について」
朋友との30年ぶりの再会
全二十編におよぶ「論語」は、その第一編「学而編」の冒頭に、
「子のたまわく、学びて時に之れを習う、また説(よろこ)ばしからずや」
という金言を掲げている。
そして、これに続く言葉が、
「朋有(ともあ)り遠方より来たる、また楽しからずや」
である。
私は長いこと、この第二行目を漫然と読み過ごしてきた。明治の元勲・山県有朋の名の出典であるということぐらいにしか、心に留めていなかったのである。
たしかに、狭いわが国では旧友がはるばる訪ねてきて思い出を語り合い、ひとときを楽しく過ごすことなど、ほとんどありはしない。
仮にそういうケースがあったところで、どこへ行くにもたかだか2時間しかかからず、しかもその空間を携帯電話とパソコン・ネットワークが埋めつくしている今日では、さほどの感慨を得ることはあるまい。
狭い国土と、高度で緊密な連絡手段を持った日本に生れ育った私は、「有朋自遠方来不亦楽乎」という孔子の言葉を、45歳の今まで実感することができなかったのである。
ところが過日、都心の書店でサイン会を行ったとき、こんなことがあった。
店内の喫茶店で事前の打ち合わせをしていた私の目の前に、突然30年も音信の絶えていた朋友が現れたのである。
「おい、俺だよ。わかるか」
と、Kはうわずった声で言った。
多少は髪も白くなり、すっかり貫禄はついたが、たぶん道で行き合ってもそうとわかるほど、Kは変わってはいなかった。
「わかるよ」と言ったきり、私は絶句してしまった。
Kと私は、中高一貫教育の進学校で、中学1年から高校1年までの4年間を共に過ごした。
「ガリ版刷りの同人誌を2人でやったよな。覚えてるか、『桃源』という本だよ」
2声目に、Kはそう言った。
私は学歴もなく、いきおい文学の友も持たず、ひとりぼっちで小説を書き続けてきたのだが、実は中学1年のとき何人かの文学少年を募ってガリ版刷りの同人誌を作ったことがあった。
中学1年の間に3学年までの教科書をほとんど終わらせてしまうというすさまじい受験校のカリキュラムの中で、創刊第1号しか出すことのできなかった同人誌の名は、たしかに「桃源」といった。
Kとはさまざまの思い出があった。
夏休みに、2人で伊豆を旅した。修善寺から天城街道を歩き、一夜を湯ケ島で過ごして、トンネルを抜け、河津までをまた歩いた。私は書生を気取って高下駄をはいていた。
秀才のKは読書のかたわら学問もおろそかにはしなかったが、私の文学熱は年齢とともに高揚するばかりだった。あげくの果てに鬱病にかかってトランキライザーを常用するようになり、高校1年をしおに転校をした。
私が高校をやめる決心をした日のことを、Kは覚えているだろうか。
かけがえのない親友を失った夜
肌寒い春の夜のことであったと思う。Kは私の翻意を促すために、下宿を訪ねてくれた。学生服を着ていた。
青梅街道に面したスナックでコーヒーを飲みながら、私はまったく唐突に、「小説家になる」と言った。
たしか、こんな応酬があったと思う。
「そんなこと、簡単に言うなよ。人生を変える理由にはならないだろう」
「いや、僕は小説家になる」
「今の環境が悪いはずはない」
「勉強ばかりしていたら本が読めない。小説が書けない」
「それは言いわけだ。小説家になるにしても、学問は必要だと思う」
「ともかく、僕は小説家になる。それしか考えていない」
「簡単に言うなって。そんな考えで小説家になれるのなら、日本じゅう作家だらけだ」
「僕はちがう。どうしても小説家になる」
「もしなれなかったらどうするんだよ。エリートコースを棒に振って、とり返しがつかないじゃないか」
「小説家になる。もしなれなかったら、死んでやる」
何時間も言い争ったあとで、Kをバス停まで送った。別れぎわに、Kは私の手を握ってひとこと、「がんばれよ」と言ってくれた。
こうして思い返してみても、そのときのKの説得は正論である。まるで父が子を諭すほど、聡明で明晰で、あやまりはひとつもなかった。
一方の私の主張は、たしかに彼のなじった通り、言いわけに過ぎなかった。どうしても小説家になりたかったことはたしかだったが、それ以上に学問がいやでたまらなかった。
かけがえのない親友を、私はその夜、失った。
なかば頭のおかしくなった、文学ぐるいの友人を諭すために、15歳のKは来てくれたのだった。彼の友情はあまりにまばゆく、バスが行ってしまってから、私は夜更けの道を泣きながら帰った。
下宿に戻って、スタンダールの『パルムの僧院』を読んだ。この感動をわかち合う友はもういないのだと思ったとき、また涙が出た。
Kはその後、慶応大学経済学部に進み、三井物産に入社した。
私は大学受験に2度失敗し、自衛隊に入り、さまざまの紆余曲折を経て、ようやく小説家になった。初めて原稿が活字になったのは35歳、単行本の上梓は40歳、そして45歳の夏にやっと、直木賞をいただいた。
Kの息子は父親の母校に通っている。あのころの私たちと同じ年ごろである。その息子が、父親より先に私の正体に気付き、新聞広告でサイン会の日時を知って、ニューヨーク在住の父に連絡をしたのだった。
Kははるばるニューヨークから、私のサイン会にやってきてくれた。そして炎天下の長蛇の行列に息子と一緒に並んで、私の前に『鉄道員(ぽっぽや)』を置いてくれた。
「セガレの名前を書いてやってくれよ」
と、Kは言った。
Kにとって、世に出た旧友は誇りであるのかもしれない。しかし私は、彼の息子に声をかけることをためらった。
30年前のKの言葉のいちいちが思い出されたからだった。
たとえ結果がこうであれ、あの日の私の主張は詭弁(きべん)であった。だからこの結果は、少くともKと私との関係においては、恥じこそすれ誇るべきものではない。
私は君のおとうさんの友情を、あの夜裏切ったのだよ。30年ずっとそんなことばかりしてきたから小説家になることができたのだよ、と私は言いたかった。
秋からハーバードのビジネス・スクールに通うのだと、別れぎわにKは言った。
それから1週間ほどして、エア・メールが届いた。全文を紹介したいほどだが、まさかそうもいくまい。
帰りの飛行機の中で、『鉄道員』を読んだとKは書いていた。読むほどに胸が熱くなって、泣いてしまった、と。
『鉄道員』は巷間(こうかん)言われるところの「お涙小説」にはちがいないが、ニューヨークに戻る機内でKの流した涙は、少々意味が異なるだろう。
彼はきっと、30年前の肌寒い春の夜を、バス停に取り残されたまま闇の中に遠ざかって行く親友の姿を、思い出してくれたにちがいない。
あの晩、Kはバスのリア・ウインドに顔を寄せて、いつまでも手を振っていてくれた。
朋有り遠方より来たる、また楽しからずや。
漫然と読み過ごしてきた孔子の言葉が、45歳の胸を被う。
学ばず、時に之れを習うこともなかった私に、続く一節を語る資格はないのかもしれない。
わざわざ訪ねてきてくれた君とゆっくり話す間もなかったけれど、近いうちに必ずこちらから伺う。
しみじみ思ったよ。君は本当に、いいやつだな。
(初出/週刊現代1997年10月18日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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