生産ライン上を運ばれていく「製品」としての私
フト目覚めると、熊本城の天守閣に立っていた。携帯電話で家に連絡をとり、いったいどういうことなのだと家人に説明を求めると、本日のトーク・セッションは熊本だという。ハイハイわかりましたと答えてホテルに戻ると、部屋は数百冊のわが著書に埋まっていた。よく知らない人Iが、サインをしてくれというので、オートマチックに名前を書いていると、でき上がったサイン本はよく知らない人Jの手で落款(らっかん)を捺(お)され、よく知らない人Kの手でいずこへともなく運び去られて行った。
気が付くと巨大な県民ホールのステージで演説をしていた。その後、ピアニストH嬢と音楽評論家H氏の間に挟まって、再び「ベートーヴェンについて」のトーク・セッションが行われた。
うとうととまどろみ、目覚めては原稿を書き、間断なく飛来するゲラを校正し、荷物の後を追って歩き、さきほど気が付くと伊丹の空港に立っていた。
トーク・セッションは2 回のはずであるから、いったいこれはどうしたことであろうと考える間もなく、目の前の私のバッグは航空会社の人らしいLの手から、別の出版社の人らしいMの手に渡された。
かくて私は自動的に梅田のホテルの一室で、「勇気凜凜ルリの色・オートメーションについて」の原稿を書いているのである。
手帳をよくよく見ると、明日午後1時から梅田の書店で、午後4時から神戸三宮の書店でサイン会、とある。
なるほど、と得心した。つまりトーク・セッションのラインとサイン会のラインが接続されているのだ。
待てよ──さらによくよく見ると、この生産ラインはサイン会の後も別のラインへと合理的に接続されているではないか。
11月8日に2つのサイン会が終わると、私の荷物は出版社の手からJRAに渡されるらしい。京都競馬場で行われるGⅠレース、エリザベス女王杯の観戦記取材のためである。
で、レース終了後、新幹線「のぞみ」で帰京。と思いきや、私のバッグは東京駅のホームでJRAのよく知らない人の手から、またまた別の出版社の人の手に渡されることになるらしい。
午後8時からホテル・ニューオータニで「浅田次郎の美女対談」だと。
何と某週刊誌のこの企画までもが、生産ラインに巧みに接続されているのである。
こうして私は、えんえん1週間に及ぶオートマチックのラインに乗って流されていることに気付いた。
2つの巨大なボストンバッグの中味は、1週間分の着替えと、原稿執筆やゲラ校正に必要な書籍文具類であった。欠けているものが何ひとつないというのが、またこわい。
生産ライン上の私は「製品」であるから、余分なことは考えなくともよいのである。オートマチックに、目の前にやってきた状況を享受すればよい。
3つの出版社と広告会社と航空会社とJRとJRAが、いったいどのようにラインを構築したのかはわからぬが、ともかく物理的に不可能なはずの私の日程は、きちんと、もちろん完全に内容を伴って消化される。
奇蹟である。日本人の叡智を感ずる。周囲の人々は私の人間的尊厳を保護しつつ、作家的使命を全(まつと)うさせるのであろう。
ところで、手帳によれば来週は取引先がそっくり入れ替わって、やはり同様の苛酷な日程となっているのであるが、果たしてすでにラインは組み上がっているのであろうか。誰かに電話をして聞いてみたいのだが、何だかこわいのでやめておく。
(初出/週刊現代1997年11月29日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。