1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第53回。直木賞受賞後、とんでもなく忙しい状況に陥った作家が経験した摩訶不思議な一週間の顛末!
画像ギャラリー「オートメーションについて」
「浅田さんの仕事を減らさず、合理化!」
原稿用紙に「オートメーションについて」という表題を書き、何とまあクラシックな外来語であろう、と呆(あき)れた。
この言葉は私が子供のころに、さかんに使われた流行語である。つまり機械が自動的に働いて人間のかわりに作業をすることなのであるが、現在ではあまりにも当たり前になってしまったので、「オートメーション」という言葉すらも古くさくなってしまった。
思えば昭和30年代には、ベルトコンベアーの上で生産工程が組まれ、製品がいっさい人間の手をわずらわせずにできあがることは、まさに瞠目(どうもく)すべき文明だったのである。
本誌読者の多くも、社会科見学と称してそうした先進の工場を見物に行った経験がおありかと思う。
無人の工場内で、機械が勝手に物を生産して行くさまを目のあたりにした私は、ああおそらく私が大人になるころには、会社にも行かず仕事もせず、毎日を寝て暮らせるのだろうなどと考えたものであった。
ところで、なにゆえ私がこのような古くさい言葉を引用するのかというと、「オートメーション」を思わず想起させる状況が私の身辺に現出したからである。
本稿でもしばしばグチッている通り、ただいま私は、情けないほど忙しい。情けないというのは、ほとんど人間としての私の尊厳が殆(あやう)いというほどの意味である。
元来グチは言わないタイプの私があえてグチるのは、グチることによって私の悲惨な実状を周囲の人々に理解していただき、多少は仕事の減ることを期待していたからであった。
しかし何としたことであろう。周囲の人々はたしかに私の実状を理解して下さったのだが、彼らは「浅田さんの仕事を減らそう」とは考えずに、きわめて日本人的発想により、「浅田さんの仕事を合理化しよう」と考えたのであった。
11月7日午後4時現在、私は大阪は梅田のとあるホテルでこの原稿を書いている。ナゼここにいるのかというと、私はすでにラインに乗ってしまった「製品」なので、自分でもよくわからんのである。
で、自己の存在確認のために手帳を取り出し、俺はナゼここにいるのかと考えた結果、周囲の人々の手でオートメーション化された生産ラインの全容が判明したのだ。
まず今から3日前、すなわち11月4日の午前6時40分に、いずこからともなくわが家に迎えの車が来た。そのころ私は、某月刊小説誌に掲載予定の短篇を脱稿し、さて2日ぶりに眠るべいとアクビをしていたところであった。
書斎から出ると、家人が私の旅仕度を整えて玄関に靴ベラを握って立っており、よく知らない人が「おはようございます」と言った。思考停止のまま、ともかくどこかへ行かねばならんのだなと思い、用意されていた衣服に着替えて車に乗った。
フト目覚めると羽田空港にいた。よく知らない人(仮にAとしておく)は、大型ボストンバッグを両手に持って、広島行のジェット機に乗った。2つの大荷物はともに私のカバンである。私のカバンの行くところに私も行かねばならないと思い、スーパー・シートに座ったとたん前後不覚の眠りに落ちた。
フト目覚めると、広島空港のゲートでよく知らない大勢の人たちに囲まれていた。そこでようやく、よく知らない人Aは出版社の宣伝関係の人であり、よく知らない人Bは航空会社の広報関係の人であり、よく知らない女性Cは大手広告会社の人であるということがわかった。
航空会社と出版社の主催にかかるトーク・セッションが予定表に書かれていたことを思い出した。何月何日に何があるという予定の詳細はすでに忘れているのである。つまり、今日がその日らしい。
やがて私はオートマチックに会場に入り、ピアニストのS氏、女優のHさんと3人で「ベートーヴェンについて」というソラおそろしいおしゃべりをした。
ホテルに戻ると山のようなファックスゲラが飛来していたので、オートマチックに校正をし、目が覚めると熊本空港にいた。
よく知らない人Dの手で私の荷物が運ばれて行くので、見失ってはならじと後を追った。
お城のそばのホテルに着くと、またしてもよく知らない人E・F・G・H等が出迎えており、締切まであと3時間という新聞社からの緊急ファックスも届いていた。
原稿を書き上げると、誰かがファックスを送信して下さり、そのままマッサージに肩を揉もまれて深い眠りに落ちた。
生産ライン上を運ばれていく「製品」としての私
フト目覚めると、熊本城の天守閣に立っていた。携帯電話で家に連絡をとり、いったいどういうことなのだと家人に説明を求めると、本日のトーク・セッションは熊本だという。ハイハイわかりましたと答えてホテルに戻ると、部屋は数百冊のわが著書に埋まっていた。よく知らない人Iが、サインをしてくれというので、オートマチックに名前を書いていると、でき上がったサイン本はよく知らない人Jの手で落款(らっかん)を捺(お)され、よく知らない人Kの手でいずこへともなく運び去られて行った。
気が付くと巨大な県民ホールのステージで演説をしていた。その後、ピアニストH嬢と音楽評論家H氏の間に挟まって、再び「ベートーヴェンについて」のトーク・セッションが行われた。
うとうととまどろみ、目覚めては原稿を書き、間断なく飛来するゲラを校正し、荷物の後を追って歩き、さきほど気が付くと伊丹の空港に立っていた。
トーク・セッションは2 回のはずであるから、いったいこれはどうしたことであろうと考える間もなく、目の前の私のバッグは航空会社の人らしいLの手から、別の出版社の人らしいMの手に渡された。
かくて私は自動的に梅田のホテルの一室で、「勇気凜凜ルリの色・オートメーションについて」の原稿を書いているのである。
手帳をよくよく見ると、明日午後1時から梅田の書店で、午後4時から神戸三宮の書店でサイン会、とある。
なるほど、と得心した。つまりトーク・セッションのラインとサイン会のラインが接続されているのだ。
待てよ──さらによくよく見ると、この生産ラインはサイン会の後も別のラインへと合理的に接続されているではないか。
11月8日に2つのサイン会が終わると、私の荷物は出版社の手からJRAに渡されるらしい。京都競馬場で行われるGⅠレース、エリザベス女王杯の観戦記取材のためである。
で、レース終了後、新幹線「のぞみ」で帰京。と思いきや、私のバッグは東京駅のホームでJRAのよく知らない人の手から、またまた別の出版社の人の手に渡されることになるらしい。
午後8時からホテル・ニューオータニで「浅田次郎の美女対談」だと。
何と某週刊誌のこの企画までもが、生産ラインに巧みに接続されているのである。
こうして私は、えんえん1週間に及ぶオートマチックのラインに乗って流されていることに気付いた。
2つの巨大なボストンバッグの中味は、1週間分の着替えと、原稿執筆やゲラ校正に必要な書籍文具類であった。欠けているものが何ひとつないというのが、またこわい。
生産ライン上の私は「製品」であるから、余分なことは考えなくともよいのである。オートマチックに、目の前にやってきた状況を享受すればよい。
3つの出版社と広告会社と航空会社とJRとJRAが、いったいどのようにラインを構築したのかはわからぬが、ともかく物理的に不可能なはずの私の日程は、きちんと、もちろん完全に内容を伴って消化される。
奇蹟である。日本人の叡智を感ずる。周囲の人々は私の人間的尊厳を保護しつつ、作家的使命を全(まつと)うさせるのであろう。
ところで、手帳によれば来週は取引先がそっくり入れ替わって、やはり同様の苛酷な日程となっているのであるが、果たしてすでにラインは組み上がっているのであろうか。誰かに電話をして聞いてみたいのだが、何だかこわいのでやめておく。
(初出/週刊現代1997年11月29日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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