「知的退行について」 バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気…
画像ギャラリー「知的退行について」
バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、約30年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第63回。アメリカが牽引する「禁煙運動」と「ジョギングブーム」について感じたことについて。
屋内禁煙ゆえポイ捨てと歩きタバコであふれる大都市
噂によればアメリカは喫煙について極めてヒステリカルな状況にあるというので、相当の覚悟を決めて出かけたのであるが、さしたる不自由はなかった。
ホテルの部屋にはむろん灰皿が置かれていたし、ロビーも通路を隔てて半分ずつ分煙されていた。レストランやコーヒー・ショップは禁煙だがバーは喫煙可で、どこのホテルもおおむねそのようであるらしい。
ということは、最もヒステリカルな西海岸はどうか知らぬが、少なくともニューヨークにおいては東京と大して違わんのである。
違うところと言えば、原則的にビル内のオフィスが全面禁煙ということであろう。このためマンハッタンのビルの入口には、どこも大勢のビジネスマンやOLが入れかわり立ちかわりでタバコを喫っていた。
どうやらどのオフィスにも、「喫煙コーナー」などという親切なものはないらしい。ビル全体が禁煙なので、気の毒なスモーカーたちはいちいち高層ビルの上からエレベーターで下りてきてタバコを喫うのである。
当然、路上はポイ捨ての喫いガラで汚れる。ビルの入口にはたいてい備えつけの灰皿があるのだが、何しろ摩天楼の玄関であるから、どれもテンコ盛りの喫いガラで溢れてしまっている。
要するに喫煙に関しては、「屋内は不可」「屋外は可」という基本原則があるので、必然的に路上が喫煙所となるのである。
したがって歩行中の喫煙も目につく。男女を問わずやたらと歩きながらタバコを喫う。オフィスでは喫えず、訪問先でも喫えず、コーヒー・ショップでも喫えないから、みんな移動中に喫い続ける。
近年わが国にも、タバコを喫いながら街を闊歩(かっぽ)する若い女性の姿が目につくが、あれはニューヨークの喫煙事情をニューヨークのファッションだと誤解した結果なのであろう。
私は日に三箱を上回る愛煙家であるが、若い時分から歩行喫煙はしない。タバコが喫いたくなったら喫茶店に入ることにしている。ナゼかというと、歩きながらタバコを喫う姿は格好が悪いと思うからである。
ニューヨークのOLがやむなく路上でタバコを喫う姿を、先進のファッションだと誤解し実行する愚かしさは、猿マネの最たるものであろう。
この「屋内禁煙」の大原則はむろん劇場等では徹底されている。
コンサートでもミュージカルでも、幕間(まくあい)には一服したい。そこで観客は、一幕が終われば一斉に戸外に出てタバコを喫い始める。カーネギー・ホールやブロードウェイの劇場の前で、幕間の客が真黒な塊(かたま)りになってもうもうと煙を立ち昇らせる様子は、壮観といおうか異様といおうか、モラルに呪縛された人間たちの悲しい営みを感じさせる。いずれにせよ、こうした姿もやはり格好の良いものではない。
思うに、アメリカは健康と引きかえに都市の美観と人間の体面とを犠牲にしているのではあるまいか。
私は喫煙による肉体的弊害は百も承知なので、それがたいそうな文化だなどとは思わない。むしろ小心で享楽的な人間の嗜好であるとすら考えている。ただし、その種の嗜好品を特殊な趣味として排斥するほど、人間は高等な生き物ではない。
屋内禁煙の原則により、ニューヨークの街路が喫いガラで汚れ、ニューヨーカーたちが集団路上喫煙の醜態を晒(さら)しているのは事実である。そもそも健康な肉体は神の造り給うたものであり、都市の美観や人間のいずまいたたずまいは、人間の知性が積み上げたものであると考えれば、アメリカ人のヒステリカルな方法はただの知的退行ではあるまいか。
「アメリカの正しい」は「世界の正しい」なのか?
ところで、ここで問題となるのは、アメリカのモラルがはたして人類のモラルとなりうるか、という点である。
アメリカは正義を信奉する国であるが、アメリカ人の正義が人類の正義ではない。むしろ正義というモラルは、個々の民族の文化の上に成立しているのであるから、それぞれに異質のものでなければおかしい。しかしアメリカは、何につけてもアメリカの正義こそが人類共通の正義であると決めつけているフシがある。そして世界中の多くの国々が、「アメリカは正しい」と考えがちである。
これは地球的な錯誤であろうと私は思う。たしかにアメリカはその強大な軍事力をもって、世界平和のために他国の紛争に介入する資格はある。ドルの実力と資本力とをもって、他国の経済事情に口を挟む資格はある。しかしアメリカの意思は、まさか神の意思ではない。ことに社会生活におけるアメリカ人のモラルは、人類共通のモラルとするほど上等なものではなかろう。
早い話が、天下国家のことならいざ知らず、タバコの喫い方までアメリカに倣(なら)う理由など何もない。ましてや分別ある大人が、国とJTを相手どって「タバコ病訴訟」を起こすなど、知的退行のきわみである。てめえが好きで喫ったタバコを、そのせいで病気になったから賠償せえなどと、何もそこまでアメリカ人のマネをすることはなかろう。
そんな裁判がまともに審理されるならば、「私は酒のせいで肝硬変になったから国と酒造業者は金を払え」という訴訟も起きる。「交通事故を起こしたから国と自動車会社は賠償しろ」も、「糖尿病になったのは国と菓子屋のせいだ」もまかり通る。私なんかいの一番に、「デビューが遅れたのは競馬のせいだ」と言い張って、国とJRAを訴えてやる。
建国からわずか二百数十年の歴史で世界のリーダーシップを取るに至ったアメリカ人は偉大であり、その国民的努力はまさに尊敬すべきであろう。ただし、わずか二百数十年の火急な繁栄には、けっして見習うべきでない多くの矛盾が内在していることを、われわれは知らねばならない。
アメリカには作り出す文化はあっても、守るべき文化はないのである。要するに「ミエ」というものを知らず、「恥」の概念がない。かくてニューヨーカーは男も女もくわえタバコで歩き、カーネギー・ホールの玄関前は巨大な喫煙所となる。
さて、セントラル・パークを見おろすエセックス・ハウスの窓辺でタバコを吹かしながら、もうひとつ気付いたことがある。
たぶんさきのヒステリカルな嫌煙運動と関係があると思うのであるが、ニューヨーカーたちは総じて「健康病」に冒されているらしい。
週末の早朝から、セントラル・パークはジョギングをする人々で溢れ返っている。むろん、それはそれで結構なことである。
しかし、元自衛官の老婆心から言わせてもらえば、テンコ盛りの超高カロリー食を食べ、週末にそれをまとめて消費しようとするのは、体にとってはたいそう毒である。運動はたとえ少量でも毎日同じカリキュラムを続けなければ意味はなく、また常時いくらかの空腹感を保つぐらいの節制をしていなければ、健康は維持できない。
そんなことは文明社会の常識であるから、彼らとて承知しているはずなのに、ニューヨーカーは老若男女こぞって、週末にはヒステリカルに公園を走り回る。まさに病気としか思えない。肥満を怖れるあまり、とにもかくにもカロリーを消費しなければならないとあせる、典型的な「健康病」である。
また、テレビでは24時間ずっと、体操ばかりをやっているチャンネルがある。コマーシャルまで運動器具と健康食品の通販なのである。
朝から晩まで、夜中から翌朝まで、エクササイズとボディ・ビルばかり、間断なく放映されているチャンネルの存在は、気持ちが悪い。大勢の健康病患者が麻薬でも飲むように、そのテレビの前にへばりついて運動をしているのであろう。
どうやら彼らの正義は、健康な肉体と不可分の関係にあるらしい。だとするとヒステリカルな嫌煙運動も、実はこの延長線上にあるのではなかろうか。
少なくとも自衛隊出身の小説家という稀有な経歴を持つ私には、彼らが健康維持という強迫観念にとりつかれ、知的退行をしつつある民族に思えて仕方なかった。
(初出/週刊現代1998年7月4日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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