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地下街に下りた途端に迷子に

ここで話は秋のパリから春浅き中国東北地方へと飛ぶ。

ハルピン市は松花江のほとり、発展する中国の中にあっても今なお旧きよき満洲の面影をとどめる、美しい街である。このたびの取材旅行は、大連、瀋陽、長春とめぐり、このハルピンを北限として北京に戻るという日程であった。

中国の気候は暦に忠実で、3月下旬の旅は思いのほか暖かかったが、さすがにハルピンの風は身を切るように冷たかった。

青空に氷の屑が舞う市街を案内して下さったのは朴(パク)さんという妙齢の女性ガイドである。色白で美しく、笑うと目が榛(はしばみ)の実の形に細まってとても愛くるしかった。

もちろん中国人の日本語ガイドという職業はスーパー・エリートで、愛らしい表情の底には硬質の知性が輝いていた。

どのような質問にも彼女は決してとまどうことなく、正確な日本語で答えてくれた。

「キタイスカヤ、とは契丹(きったん)人の街という意味のロシア語ですね。もともとハルピンはロシア人の造った街で、革命後には国を追われた白系ロシア人が住みつきました。満洲国時代にもその数は日本人よりずっと多かったのですよ。それに、白系ロシア人は貴族や資産家が多かったから、ハルピンはこんなに優雅な街に発展したのです。現在は繊維関係とか衣料品が主な産業ですね。日本との合弁工場もたくさんあります」

とまあ、こんな調子である。朴さんは服装もおシャレで、スパッツに革の半コートを羽織り、さっそうと街なかを歩くさまなどはまさしく選良中の選良というふうであった。

市内観光を一通りおえたあと、お買物をしようということになり、朴さんと連れ立って街に出た。

「秋林百貨店(チユーリンデパート)は旧満洲時代と同じ名前で、南崗街の同じ場所にあります。建物もそのままですね。もちろん今は国営のデパートですけれど」

買物をおえて地下街におりた。ハルピンは真冬には氷点下20度にもなるので、長大な地下街が張りめぐらされている。それぞれ「香港街」「東京街」などという名称がつけられ、ぎっしりと並んだ店はほとんどが衣料品店であった。

人ごみに揉まれながら地下街を歩いているうち、朴さんが突然パックマンになっちゃったのである。

たしかハルピン生まれのハルピン育ちだと言っていた。いくら長大な地下街とはいえ、生まれ育った街なかで迷子になるはずはあるまい。しかし朴さんは複雑に入り組んだ地下道をウロウロと歩き回り、顔色も心なしか青ざめ、しまいには日本語もしゃべれなくなってしまったのである。

「我(ウオー)~~迷(ミー)~~路(ルー)~~了(ラー)~~」

「えっ、道に迷った? 落ちつけ、朴さん。よおく考えてみろ」

「~~儿是(ルシー)~~哪(ナー)~~儿(ル)? ……」

「こ、ここはどこだって、俺に聞かれても困る。ええと、北はこっちだから、ホテルはたぶんこの方角」

「是(シー)~~~~个(コー)~~方(フアン)~~向嗎(シアンマ)~~」

「こっちの方かって……うん、たぶんそうだよ」

私には自信があった。いったい中国の道というものは曲線がなく、しかもたいていは正確に東西南北を結んでいる。

「請跟我来(チンゲンウオライ)。ついてこい、朴さん」

「対不起(トエプチー)~~」

「没事儿(メイシヤール)。気にするな朴さん。これは決して君のガイドとしての資質をおびやかすものではない。きょうは土曜日で人出も多い。道に迷うのは当たり前だ」

「謝謝(シエシエ)~~你的好意(ニーダハオイ)~~」

「哪里(ナーリ)哪里(ナーリ)。どういたしまして」

他意なくつないだ朴さんの手は、少女のように柔らかく、温かかった。

歩きながらふとこんなことを考えた。雇用機会均等法の施行以来、女性は社会で大活躍をし、そのぶん男は弱くなった。はなから男女が同権である共産中国では、さらに如実であろう。

しかし、男性が女性にすべてを委ねてはならない。いかな場合においても、男性は女性を庇護(ひご)する責任を放棄してはならない。少なくとも神は、男性にのみ狩に出て獲物を捕え、それを巣に持ち帰る能力を授けたのである。

地下道を抜け出ると、ハルピンの青空には氷の屑が舞っていた。ポプラの街路樹の下で私の手をほどくと、朴さんは正確な日本語で「ありがとうございました」と言った。

懸命に働く女性の姿は頼もしく、また美しいが、おろおろととまどう女性はたまらなく可愛い。そしてその愛らしさが、決して働く女性の尊厳を傷つけることはない。

(初出/週刊現代1998年4月25日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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