国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。連載「音楽の達人“秘話”」のシンガー・ソングライター・南佳孝第3回は、1979年に発表した名曲「モンロー・ウォーク」の制作背景をたどります。なぜ、「セクシー・ユー」として、郷ひろみが歌ったのか―――。
歌唱力の素晴らしさに業界が注目
日本の音楽シーンには夏の定番ソングと呼べるものが多くある。そのひとつが、南佳孝の「モンロー・ウォーク」。昭和の夏の浜辺をイメージするファンの方も多いことだろう。デビュー・アルバム『摩天楼のヒロイン』は大ヒットとはならなかったものの、その曲作りのセンス、歌唱力の素晴しさに業界関係者は注目していた。
そんなひとりにEPICソニーの敏腕ディレクター、高久光雄がいた。シカゴなどアメリカの人気バンドの洋楽ディレクターを務めた後、邦楽部へ移動した。父はマンドリン奏者として高名だった高久肇。音楽的な家庭に育った彼は大学卒業後、日本コロムビアに入社した。その後、EPICソニーに移り、邦楽部へ移動してからは、キャロルからソロとなった矢沢永吉を大ヒットさせた。
矢沢永吉のヒットで社内での発言権を強化した高久光雄は、かねてから惚れていた南佳孝を自社に移籍させるのに成功した。業界では、譜面が読めてアレンジもできる音楽専門家としても知られていた。
郷ひろみのファンには意味が分からない
移籍してすぐにヒットには恵まれなかったが、移籍3作目(『摩天楼のヒロイン』から通算4作目)のアルバム『SPEAK LOW』(1979年6月)収録のシングル「モンロー・ウォーク」で注目された。1979年4月にリリースされたが、最初はさほど注目されなかった。「モンロー・ウォーク」に目を止めたのは、南沙織、山口百恵などを売り出したディレクターの酒井政利だった。
酒井政利は手掛けていた郷ひろみの新曲を捜していて「モンロー・ウォーク」に目を止めたのだ。“モンロー・ウォーク”では郷ひろみのファンには意味が分からないと考えた酒井政利は、「セクシー・ユー(モンロー・ウォーク)」とタイトル変更して1980年1月にシングル化した。
「セクシー・ユー(モンロー・ウォーク)」はオリコン11位にランクされ、テレビなどで多く放送された。このことによって作曲者である南佳孝に大きくスポットライトが当たった。そして翌1981年1月リリースのシングル「スローなブギにしてくれ(I want you)」はオリコン6位の大ヒットとなった。
この曲 はサウンドトラックを南佳孝が担当した映画『スローなブギにしてくれ』(1981年公開、原作・片岡義男)の主題曲となった。南佳孝にサウンドトラックを任せるというアイデアは、製作者の角川春樹の友人で、南佳孝の大ファンだった作詞家の安井かずみによるものだった。