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自らを選良だとは信じぬ本物の男たち

級友たちの自己紹介を聞きながら、M先生の「完全無欠のクラス」ぶりを思い知った。

16名の参加者中、東大に進学した者が4名、さらに医者が4名である。その他の級友もみなそれぞれに商社や銀行や研究室で、めざましい出世をとげていた。なるほど手のかからぬクラスだったはずである。

私は4年の間、いったい何をしていたのだろうと考えた。

勉強をしたという記憶は、まったくと言ってよいほどない。学園生活の思い出といえば図書館に通いつめたことと、吹奏楽部でラッパを吹いていたことぐらいだ。

図書館の蔵書は充実していた。ことに著名作家の全集が揃っており、最も多感な時期に谷崎潤一郎や森鷗外や折口信夫を細密に読みこむことができた私は幸福であったと思う。そうした環境は、おそらく志よりも興味よりも、私の未来を決定づけた。

それにしても、人間の記憶とはまことにいいかげんなものである。会場に入ったときには誰が誰やらまったく見当がつかず、渡された名簿の氏名すらも思い出せなかったのであるが、ものの30分後にははるかな時間を越えて、昭和39年の教室に座っているような気分になった。

よくよく見れば、実は先生と同様に、誰も変わってはいないのである。顔形もしゃべりかたもちょっとした癖も、みな30年前のままなのであった。

級友のひとりが、私の顔をしげしげと見つめながら言った。

「おまえ、ぜんぜん変わってないな」

ちょっとビックリした。なぜなら、絵に描いたようなエリート人生を歩んできた友人たちにひき較べ、私の30年はまともではなかったから。

「……そうかな」

「そうだよ。頭がハゲて、メガネをかけただけじゃないか。どこも変わってないよ」

思わず目頭が熱くなった。彼が30年前にも白皙(はくせき)の医者のような顔をしていたように、かつての私もまた小説家のような顔をしていたのであろうか。

同時にこうも思った。医者にも教授にも商社マンにも実業家にも、やはり人には言えぬ30年間の労苦があったのだろう、と。

彼らが生れついてのエリートだったのではない。彼らはきっとエリートたらんとするものの矜(ほこり)にかけて、さまざまの艱難(かんなん)を乗り越え、本物のエリートになったのだ、と。

何だか自分の体が萎(な)えしぼんで行くような気がした。小説家になりたい一心で、半生の経験を売り物にしてきた自分が恥ずかしかった。

本物は決して衒(てら)わぬものだということも知った。彼らは一様に、自分が成功者だとは思っていない。みんなすごいな、と誰もが言っていた。

真の努力をした者は己れの努力の至らなさを知る。だからその結果、どれほどの名望を得ようともそれを容易に信じようとはしない。自分を取り巻く人々のすべてが、自分よりすぐれた者だと考えてしまう。

そんな15名の級友は、ひとりひとりが本物の男であった。

ひとときの宴が終わり、雨の路上で別れるとき、それまでひとことも言葉を交わさなかった友人が、私の肩を抱き寄せて言った。

「おまえ、どこ行ってたんだよ。心配してたんだぞ」

ごめんな、と言うほかに言葉は見つからなかった。友人たちは志を達した私を祝福してくれたわけではなかったのだ。私が教室に戻ってきたことを、心のそこから喜んでくれたのだ。

どうしても小説家になりたかったから、と言いかけて、私は口をつぐんだ。それが仮に私の彷徨(ほうこう)の大義であったにせよ、30年前の感情を昨日の痛恨事のように思い出してくれる彼らの友情を、私はあの日、裏切った。

雨の路上を振り返った。15人の、決して自らを選良だとは信じぬ本物の男たちが、もろ手を挙げて私を見送っていた。

(初出/週刊現代1996年11月23日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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