関ヶ原で惨敗、西軍を統率できなかった三成
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いは、徳川対豊臣の天下分け目の戦いと学校で習いますが、実際は豊臣家内の覇権争いなんです。つまり、徳川家康も石田三成も豊臣秀頼の家臣だったからです。家康は、形の上では佞臣(ねいしん=よこしまな臣下)石田三成を排除すべく戦い、三成は秀吉の遺言を破り、天下を奪おうとする横暴な家康の排除を画策したのです。
石田三成はみずから総大将になることはせず、毛利の外交僧・安国寺恵瓊や友人大谷吉継と相談し、毛利輝元を担ぎ出すことに成功します。さらに宇喜多秀家、小早川秀秋と大大名を取り込み、会津の上杉景勝の家臣・直江兼続と謀って、徳川勢を挟み撃ちにする大胆な計画を立てます。
しかし実際は、武断派で三成嫌いの黒田長政が小早川秀秋ほか西軍の諸将に裏切り工作を仕掛け、関ヶ原の合戦では小早川の寝返りや吉川広家の内通により、西軍は惨敗を喫してしまいます。実は三成も田中吉政に寝返るよう工作していたのですが、実際は裏切らず、田中吉政に三成は生け捕られてしまいます。結局石田三成は西軍をしっかり統率できなかったのに対し、東軍は家康という重しがあったということでしょう。
下剋上の時代に正義感が過ぎた
ただし、三成にも勝てるチャンスはありました。ひとつは総大将として秀頼を出陣させることです。しかし、これは秀頼の母の淀殿が断固拒否します。もうひとつは合戦の前日、9月14日の軍議で、島津義弘が家康の陣への夜襲を進言したことです。この先制パンチがあれば、状況は違ったかもしれません。何しろ、最強といわれる島津軍が家康に襲いかかるのですから。
しかし、家康との戦いを正義の戦いと位置づけ、堂々と勝ちたかった三成は、これを拒否します。戦下手というか、不器用なんですね。それでも、下克上が当たり前の戦国期に、ここまで正義感のある人物はいません。最近三成が再評価されているのは、経済官僚としての能力はもちろん、正義漢として清々しさを感じさせるからだと思います。三成は領地でも善政を敷いていたようです。当地の古老はいまだに「石田さま」と三成のことを尊敬しているからです。