最期まで豊臣家に尽くそうとする男の意地
最後に三成らしいエピソードと彼の言葉を紹介しましょう。「武士たる者、生き恥をさらすより、潔く切腹するべきだ」という周囲の声に毅然と言い放った言葉が「大義を思うものは、たとえ首をはねられ、死ぬ瞬間まで命を大切にして、本意を達せんと思う」でした。
そして、関ヶ原。この戦いで敗れた三成は自刃せず伊吹山に身を潜めますが、田中吉政の軍勢に捕らえられてしまいます。三成が刑場の京都六条河原に引かれていく際、警護のものに湯が飲みたいと所望します。しかし、湯がなく、代わりに自生の柿を渡されると「痰の毒になるからいらぬ」と断ったとも伝えられています。最期まで生きて豊臣家に尽くそうとする男の意地は、私には清々しささえ覚えます。
【佐和山城(さわやまじょう)】
鎌倉時代近江の守護職・佐々木定綱の息子が砦を築いたのが始まり。戦国時代になり、六角、京極、浅井三氏の争いの舞台になり、小谷城を本拠とする浅井氏の支城となるが、姉川の戦いで織田信長に敗れ、丹羽長秀が入城。堀秀政、堀尾吉晴と城主が変わり、天正18(1590)年、石田三成が19万4000石で入城。大改修を行い、五層の天守がそびえていたというが落城後、井伊直政が入り彦根城に資材として運ばれ、遺構はほとんどない。
アクセス:滋賀県彦根市古沢町の龍潭寺(りょうたんじ)からハイキングコースで向かうのがオススメ
【石田三成】
いしだ・みつなり。1560~1600年。近江の豪族、石田正継の次男として坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)に生まれる。幼名は佐吉。長浜城主で当地を治めた豊臣秀吉に小姓として召し抱えられる。秀吉の関白就任以降、五奉行のひとりとして財務、内政面を担当する。特に検地と全国制覇を支えた兵站における功績は目を見張るものがあった。秀吉亡きあと家康と対立して、西軍を結集、関ヶ原の戦いに挑むものの裏切りもあって敗戦。自身は捕縛され家康の命によって大坂堺を引き回された後、京都六条河原で斬首された。享年41。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」