バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第90回は、「三たび忘却について」。
最高裁判決に異議あり!
おそまきながら積年の夢であった作家デビューを果たして、以来四年半が過ぎた。
一文にもならぬ小説を書き続けた時代が余りに長かったせいか、あたかも渇(かっ)した者が水を得たように、ガツガツと原稿を書いている。省(かえりみ)れば、4年半の間かたときも机の前を離れなかったような気さえする。
結果、作品も次第に版を重ねるようになり、有難い文学賞もいただいた。子供のころから夢に見続けたステージに立つことができた私は、世界一の幸福者だと思う。
今しがた出版社の仕立ててくれた車に送られて、真夜中の書斎に戻ってきた。「勇気凜凜」の原稿を書こうと筆を執ったところ、何だか自動書記のような感じでこの文章を書き始めてしまった。
「忘却について」というタイトルは3度目である。銀座の文壇バーを3軒もめぐって調子に乗り、運転手さんにまで自慢話をし、書斎に入ったとたん一夜の言動の愚かしさを悔やんだ。自分は忘却していると感じたのである。
急激に訪れた物心両面の豊かさの中で、私は過去の労苦のことごとくを忘れ去っている。卑しいことである。これこそ真に貧しいことである。
6畳の書斎は夥(おびただ)しい書物に囲まれて、壁も窓もない。褐色に灼(や)けた物言わぬ背表紙が、私を見据えている。
谷崎潤一郎の『新々訳源氏物語』は、高校生のころバイト代をはたいて買った。胸をときめかせながら、全6巻を原稿用紙に書写した。
三島由紀夫の『文章読本』は早世した先輩の形見であり、その隣に収めてある丸谷才一の『文章読本』は、昼飯とひきかえに買った記憶がある。
黙阿弥(もくあみ)全集を買ったのは米も買えないどん底の時代で、家人を泣かせた。
永井龍男の短篇集と鷗外選集はバイブルのようなもので、手垢(てあか)にまみれ、びっしりと付箋の付けられたまま並んでいる。
ぼろぼろの広辞苑は、私立中学に合格したとき母が買ってくれたものである。母は夜の商売をしながら、私に最高の教育を授けてくれた。
書物は捨てたことがなく、売ったこともない。つまり、私の過去そのものである。それぞれのもたらした福音は、私の中で血肉となっているのであろうが、それらを誠実に学んだころの自分を、私は忘却しようとしている。何という愚かしさ卑しさであろうと思った。
ところで、私事はさて置く。
本稿に書かねばならないと思っていた新聞の切り抜きが、机上にある。「市ヶ谷駐屯地保存訴え棄却」と題する、最高裁判決の記事である。
ほんの小さな記事であり、テレビのニュースにもならなかったものであるから、ここにその全文を書き写す。
旧陸軍参謀本部などが置かれ、極東軍事裁判(東京裁判)の舞台にもなった東京都新宿区の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地一号館の取り壊し問題で、保存を求める市民団体が国を相手取って取り壊し決定の取り消しを求めた行政訴訟の上告審で、最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)は17日、訴えを門前払いにした一、二審判決を支持し、市民団体の上告を棄却する判決を言い渡した。
上告していたのは、「市ヶ谷台一号館の保存を求める会」会長の宇野精一東大名誉教授ら。「一号館は歴史的文化的な史跡であり、国には保存する義務がある」と主張していたが、最高裁は、「取り壊しは防衛庁の内部的な政策決定であって、行政訴訟の対象となる公権力の行使にはあたらない」とした一、二審の判断を支持した。
日本人は忘却する民族であると、よく言われる。いやなことは忘れよう、屈辱と貧困の記憶は忘れ去ろうと、その民族性をいかんなく発揮した結果が、これだ。
かつて一自衛官として市ヶ谷台上に青春を過ごした私は、一号館の物言わぬ壮厳さを、いまだありありと胸にとどめている。その胎内に何度も座り、回廊に半長靴を踏みしめた1人の「軍人」として、最高裁の判決に異を唱える資格はあると思う。
市ヶ谷台一号館を保存すべき2つの理由
あの建物は永遠に保存しなければならない歴史的遺産である。原告団の主張に補足をさせてもらえるならば、「国には保存する義務があり、国民には忘却してはならない義務がある」と、私は考える。
あの建物とともに忘却してはならないものは、少くとも2つある。ひとつは、市ヶ谷台一号館が、かつて世界を相手に戦った日本軍の中央指揮所であったという事実である。戦(いくさ)の是非を問うつもりは毛頭ない。決して繰り返してはならない殺し合いの、永久のいましめとして、不戦憲法をいただくわが国民は「平和祈念資料館」を持たねばならない。
もうひとつは、あの建物が極東軍事裁判の法廷であったという事実である。勝者が敗者を裁くという獣に等しい蛮行が、わずか50年前に一号館を法廷として行われたのである。
市ヶ谷法廷において死刑を宣告された「A級戦犯」は7名であるが、それを頂点として934名(注・朝日新聞社資料による。正確な数字は明らかではない)にのぼる「BC級戦犯」が、アジア各地の粗末な法廷で、十分な審理もなされぬまま死刑に処せられた。
一号館は戦という愚かしい行為と、報復裁判というさらなる愚かしい行為とを、その優美な建築のうちに記憶していた。
この記憶について、「国には保存する義務がある」とする原告団の主張の、いったいどこが不当なのであろうか。「国民には忘却してはならない義務がある」とする私の補足は、はたして詭弁(きべん)であろうか。
判決は言う。「取り壊しは防衛庁の内部的な政策決定であって、行政訴訟の対象となる公権力の行使にはあたらない」、と。
これはちがう。「防衛庁の内部的な政策決定」は、防衛庁が官庁であり、職員や自衛官が公務員である限り、明らかに「公権力の行使」である。もしそれが「行政訴訟の対象」になりえないのであれば、すべての官庁や公的機関は、国民の意思などまったくお構いなしに、勝手に「内部的な政策決定」に基づいて行動しても良いということになる。これほどばかばかしい、子供だましの、言葉の遊びのような判決を私はかつて知らない。
戦争も戦争裁判も、もはや取り返しようのない歴史である。しかし、だから忘れて良いというほど軽い歴史ではあるまい。
現実に多くの国民が忘れてはならないことを忘れてしまったからこそ、戦後50年を経た今日でもなお、さまざまの問題が起きているのではないのか。過去の労苦を忘れて繁栄したわれわれが忘れても、基地問題は沖縄県民にとって、忘れようもない現実なのである。朝鮮人慰安婦の問題にしても然(しか)り、中国残留孤児にしても然り、われわれが勝手に忘却したものは、余りにも多すぎる。
「防衛庁の内部的な政策」について、その詳細を知りたいと思うのは、ひとり私ばかりではなかろう。忘れてはならない歴史の遺産を破壊してまでも、そこに新たな自衛隊の指揮所を建設せねばならない正当な理由を、私は知りたい。
また、自衛隊のOBとして、こうも考える。もし一号館の取り壊しが、純然たる「防衛庁の内部的な政策決定」であるのなら、彼らは世界を相手に戦った矜(ほこ)り高い軍隊の末裔ではない。戦勝国の命令によって作られたおもちゃの兵隊である。おもちゃに国民の生命が守れるはずはないから、そんなものは誰もいらない。
やっと小説家になった。みじめな生活は二度と繰り返したくはない。だが、一生懸命に努力を続けることが、現在の私を保障しているわけではないのだ。
胸をときめかせて書き写した源氏、米のかわりに買った黙阿弥全集、手垢にまみれた鷗外、母が与えてくれたぼろぼろの広辞苑──それらを永遠に座右に置き、労苦の時代を忘れずにいることこそが、私の現在と未来とを約束してくれるのだと思う。
ちがうであろうか。
(編集部注/市ヶ谷台一号館は、その後、防衛庁(現防衛省)から何の説明がないまま、その一部が敷地内に移設され、現在、「市ヶ谷記念館」として改称され、公開されている)
(初出/週刊現代1996年5月25日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。