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市ヶ谷台一号館を保存すべき2つの理由

あの建物は永遠に保存しなければならない歴史的遺産である。原告団の主張に補足をさせてもらえるならば、「国には保存する義務があり、国民には忘却してはならない義務がある」と、私は考える。

あの建物とともに忘却してはならないものは、少くとも2つある。ひとつは、市ヶ谷台一号館が、かつて世界を相手に戦った日本軍の中央指揮所であったという事実である。戦(いくさ)の是非を問うつもりは毛頭ない。決して繰り返してはならない殺し合いの、永久のいましめとして、不戦憲法をいただくわが国民は「平和祈念資料館」を持たねばならない。

もうひとつは、あの建物が極東軍事裁判の法廷であったという事実である。勝者が敗者を裁くという獣に等しい蛮行が、わずか50年前に一号館を法廷として行われたのである。

市ヶ谷法廷において死刑を宣告された「A級戦犯」は7名であるが、それを頂点として934名(注・朝日新聞社資料による。正確な数字は明らかではない)にのぼる「BC級戦犯」が、アジア各地の粗末な法廷で、十分な審理もなされぬまま死刑に処せられた。

一号館は戦という愚かしい行為と、報復裁判というさらなる愚かしい行為とを、その優美な建築のうちに記憶していた。

この記憶について、「国には保存する義務がある」とする原告団の主張の、いったいどこが不当なのであろうか。「国民には忘却してはならない義務がある」とする私の補足は、はたして詭弁(きべん)であろうか。

判決は言う。「取り壊しは防衛庁の内部的な政策決定であって、行政訴訟の対象となる公権力の行使にはあたらない」、と。

これはちがう。「防衛庁の内部的な政策決定」は、防衛庁が官庁であり、職員や自衛官が公務員である限り、明らかに「公権力の行使」である。もしそれが「行政訴訟の対象」になりえないのであれば、すべての官庁や公的機関は、国民の意思などまったくお構いなしに、勝手に「内部的な政策決定」に基づいて行動しても良いということになる。これほどばかばかしい、子供だましの、言葉の遊びのような判決を私はかつて知らない。

戦争も戦争裁判も、もはや取り返しようのない歴史である。しかし、だから忘れて良いというほど軽い歴史ではあるまい。

現実に多くの国民が忘れてはならないことを忘れてしまったからこそ、戦後50年を経た今日でもなお、さまざまの問題が起きているのではないのか。過去の労苦を忘れて繁栄したわれわれが忘れても、基地問題は沖縄県民にとって、忘れようもない現実なのである。朝鮮人慰安婦の問題にしても然(しか)り、中国残留孤児にしても然り、われわれが勝手に忘却したものは、余りにも多すぎる。

「防衛庁の内部的な政策」について、その詳細を知りたいと思うのは、ひとり私ばかりではなかろう。忘れてはならない歴史の遺産を破壊してまでも、そこに新たな自衛隊の指揮所を建設せねばならない正当な理由を、私は知りたい。

また、自衛隊のOBとして、こうも考える。もし一号館の取り壊しが、純然たる「防衛庁の内部的な政策決定」であるのなら、彼らは世界を相手に戦った矜(ほこ)り高い軍隊の末裔ではない。戦勝国の命令によって作られたおもちゃの兵隊である。おもちゃに国民の生命が守れるはずはないから、そんなものは誰もいらない。

やっと小説家になった。みじめな生活は二度と繰り返したくはない。だが、一生懸命に努力を続けることが、現在の私を保障しているわけではないのだ。

胸をときめかせて書き写した源氏、米のかわりに買った黙阿弥全集、手垢にまみれた鷗外、母が与えてくれたぼろぼろの広辞苑──それらを永遠に座右に置き、労苦の時代を忘れずにいることこそが、私の現在と未来とを約束してくれるのだと思う。

ちがうであろうか。

(編集部注/市ヶ谷台一号館は、その後、防衛庁(現防衛省)から何の説明がないまま、その一部が敷地内に移設され、現在、「市ヶ谷記念館」として改称され、公開されている)

(初出/週刊現代1996年5月25日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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