前身の駅弁屋に住み込みで働いた山下清、度重なる“夜逃げ”の末に…
弥生軒と言えば、放浪画家と称される山下清(1922~71年)が住み込みで働いていたことでも知られています。我孫子駅の店舗入口や店内には「彌生軒はぼくが働いていたお店です 山下清」と昭和38(1963)年に書かれた自筆の色紙や絵画のほか弥生軒を訪れた山下の写真と共に紹介されています。
山下は大正11(1922)年、東京・浅草の近くで生まれました。昭和9(1934)年に千葉県の施設「八幡学園」に入りますが、昭和15(1940)年 11月18日から、放浪の旅に出ます。
植崎社長が、山下と年齢が近く親交のあった父親から聞いた話によると、戦時中の食糧難にあえぐ山下が行商のおばさんから、「我孫子駅の弥生軒に行けば、米が食べられるよ」とすすめられやって来たのは、昭和17(1942)年、20歳の頃。弥生軒の創業者(植崎社長の祖父)らに迎え入れられた山下は、駅弁を細い紐で器用に結び、雑用を嫌がらずにこなす生真面目さで、重宝されていたそうです。
「ただ、彼は半年ごとに“夜逃げ”するクセがあったらしい。前の晩『今夜は月がキレイだな』とつぶやいた翌日には決まって姿が見えない。初めこそ、みんな心配したけど、あまりに頻繁でね。ぴったり半年後には何事もなかったように『ただいま』って帰って来て、また黙々と働くからそのうち気にならなくなったって。しかし、最後の夜逃げでとうとう戻ってこなかった」
“放浪画家”が描いた包装紙
弥生軒で働いていたのは5年間ほど。後に放浪画家として世に名が知られるようになった山下に、誰もが驚いたといいます。
植崎社長が山下を見たのは2度。「画家として有名になった後、忙しいさなかにわざわざ祖母(創業者の妻)を訪ねて、『その節はお世話になりました』と丁重にあいさつに来られたのを偶然見かけ『なんて律儀な人なんだろう』と子供心に感心しました」。
画家として名を馳せた記念に、駅弁の包装紙の絵を描いてもらうことになり、春夏秋冬の計4枚を依頼したところ、我孫子駅や市内の手賀沼周辺の風景画を情緒豊かに描いたといいます。だが、4枚目を描き終えることなく昭和46(1971)年7月、山下は永遠の旅へと向かいました。49歳でした。
さまざまな物語を紡ぎ、弥生軒はまもなく創業100年を迎えます。「これからも、お客さんに愛される伝統の味を手間暇惜しまず守る、これに尽きます」。植崎社長は今日もできたての美味しさを自ら届けるべく、各店舗へ奔走していることでしょう。
文・写真/中島幸恵
「弥生軒5号店」
【住所】JR常磐線および成田線「我孫子駅」4、5番線ホーム
【営業時間】月~土7時~17時/日祝8時~16時
【休日】無休
「弥生軒6号店」
【住所】同上1、2番線ホーム(上野方面)
【営業時間】月~金7時~22時/土7時~21時/日祝7時~20時
【休日】無休
「弥生軒8号店」
【住所】同上1、2番線ホーム(取手方面)
【営業時間】月~金11時半~21時/土11時~19時/日祝11時~16時
【休日】無休
「弥生軒 天王台店」
【住所】JR常磐線「天王台駅」1、2番線ホーム
【営業時間】月~金7時~13時30分
【休】土日祝
※電話は全店共通(04-7182-1239)