今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その42 「マスターズ」の天国と地獄
1番ティに立つことは、究極の下剤である
罪深い色に染まった百戦錬磨のトッププロでさえ、いざ高速道路から降りてオーガスタ・ナショナルの門に到着すると、もう平静ではいられない。どうやら南部随一の果樹園跡に造られた究極の18ホールには、氷のような手で人間の心臓をワシ摑みにする魔物が棲むらしい。
「車がマグノリア・レーンに近づくにつれ、徐々に鼓動が高鳴り始めて、ゲートをくぐった瞬間、入学式に臨んだ小学生のように脳が煮えくり返って自分がわからなくなる。これは毎度のこと、法王と謁見する信者に似たパニックだね」(ゲーリー・プレイヤー)
「ゲートに入っただけで、冷静さなんて吹き飛んでしまうコースだ。その証拠にジャック・ニクラウスを見てごらんよ。あの帝王にしてマスターズだけは別格、2週間も前から現地入りして、10日間は火照った体の冷却期間に当ててるぐらいだ」(ライオネル・ヒバート)
「事情が許せば、本当は3週間前からでも行きたいと思っている。オーガスタは世界一神秘的なコースであり、エドワード様式の庭園として眺めても超一流だ。ここだけの話、私は家族の次にマスターズを愛している」(ジャック・ニクラウス)
「マスターズの実行委員会は、ニクラウスとパーマーだけ念頭に置いて準備に取りかかる。二人のための特別ルールだって用意されてるぐらいだ。飛距離、弾道、グリーンのタッチまで、とくにニクラウスのゴルフと合うように改修されて久しい。だから、もし優勝できなかった場合、彼から罰金を取るべきだろうね」(デイブ・ヒル)
世界四大メジャーのうち、不動のコースで演じられるのはマスターズだけ。たった4日のゲームのために、6ヵ月以上プレー禁止、じっくり熟成させるのだから途方もない。1934年に開幕してからというもの、マウンド、バンカー、池の姿、グリーンなど、目に見えない傾斜にまで営々と改良の手が加えられてきた。それでもまだ110ヵ所の手直しが検討されているそうだ。人知の極ともいえるコースを求めて、オーガスタはまだまだ美しく変身するだろう。しかし、ここまでやられてつらいのが選手たち。そこで彼らのコメントばかり集めて「素顔のマスターズ」とシャレてみた。
「アマチュアにとって、オーガスタの1番ティに立つことは、究極の下剤である」(招待された全英アマの勝者、トレバー・ホーマー)
「いざ1番ティに立ってみると、僕のズボンが微風に揺れていた。そこで梢を見上げたところ、風なんてソヨとも吹いていなかった」(同じくアマのビニー・ジレス)
「それにしても凄いコースだ。僕はまだ天国に行ったこともないし、過去の生きざまからして、これからも行けるとは思えない。恐らく、このマスターズが僕の行ける最高の場所だろうね」(ファジー・ゼラー)
「厳粛で、何もかもピーンと張りつめて、ユーモアの片鱗も存在しないのがマスターズだ。ここでは子犬も吠えなきゃ、赤ん坊も泣きゃしない」(ゲーリー・プレイヤー)
「見たまえ! 緑の芝、緑色の観客席、緑色の売店、緑色のコップ、緑色の折り畳み椅子とバイザー、緑のロープ、緑の松……。もし創造主が正義を行うものなら、毎年ヒューバート・グリーンが優勝するだろうよ」(作家、ジョン・アップダイク)
「あるリポーターが、こう尋ねてきた。マスターズでプレーするのは、あなたにとってどれほどの意味がありますかって。そこで俺はこう答えた。間違いなく言えるのは、週末に休みが取れないこったね」(リー・トレビノ)
「左側の木を全部切ってみてくれ。俺がジャック(・ニクラウス)より強いゴルファーだってこと、証明してやるから」(フェード打ちのリー・トレビノ。オーガスタでは2ホール以外、すべてドローボールが要求される)