場末の商店街の帽子店にそれはあった
帰京した私は家族にも編集者にも内緒で、懸命に帽子を探し始めた。
以前にも書いたが、62センチの帽子は存在しない。ために私はかつて、学生帽も軍帽も、鉄カブトの中帽のしかけさえも、こっそりと改造して冠っていたのである。若い自分にはそうした手間も惜しまず、また多少の出来ばえの悪さも苦にならなかったのであるが、40も半ばになってはそれもうまくない。
第一、「浅田次郎はゴム入りの改造帽を冠っている」などという噂がとべば、私は今後お笑いエッセイのほかに生きる道がなくなる。それもまあ悪くないと思うけど、やっぱりいやだ。
そうこうするうちに8月の取材日程が迫ってきた。62センチの帽子をあちこちと探しあぐねながら、私は短絡的な強迫観念に捉われだした。つまり、「帽子がなければ小説が書けない」というプレッシャーに襲われたのである。決してそんなはずはないのだが、病的なまでにそう思いこんでしまった。
さて―—ここに1個の帽子がある。
たいそう派手な、ツバの広いパナマ帽である。大枚1万5千円もしたが、たとえ15万円でも私は迷わず買ったであろう。
とうとうめぐり遭ったのは、帽子探しに倦(う)んじ果てた場末の商店街であった。それはくすんだショーウインドの中で、おのれの並外れたサイズの為に長らく購(あがな)われることもなく、静かに巨頭を待っていた。
その日、私は知人からの非情なファックスを受け取り、失意のどん底にあった。
「あちこち探しましたが、パリにはありません。イタリアにはあるかもしれないと帽子屋さんが言っていましたので、そちらに聞いたらいかがでしょうか」
イタリアか……と呟きながら、私はワラにもすがる思いで、電話帳で調べた数少ない「帽子専門店」を訪ねたのであった。
たそがれのショーウインドの片隅にその帽子を発見したとき、(これはデカい)、と思った。見た目にははっきりとそうとわかるほどデカかったのである。
きょうびまったくはやらぬ帽子専門店に入り、おそるおそる訊ねた。
「あの……それを見せて下さい」
店主は私の頭をチラと見て答えた。
「サイズが大きいですよ」
私の頭は後頭部が突出した形なので、一見してそう大きくは見えないのである。
「いえ……けっこう大きいんです。見せて下さい」
「そうですかあ? ま、モノはためしということもあるけど、これは大きすぎてなかなか売れないんですよ。もしサイズが合えばお勉強しときます」
通常、モノはためしと冠ったとたん、帽子は正月のおそなえ餅のようになる。冠るのではなく、乗っかるだけなのである。店員はたいてい爆笑し、私も笑ってごまかす。ただしそのときの屈辱感といったらただものではない。
冠る前に、まず内側を点検した。カナダ製のステットソン。一流メーカーである。しかしサイズ表示には(60/7 1/2)とあった。60はセンチ、7 1/2は号数かなにかであろう。
私は溜息をついた。
「あの、60センチじゃダメなんです」
「いえいえ、表示にはそうありますけど、どういうわけか大きいんですよ」
ふと、カナダの雄大な自然が私の脳裏をかすめた。その国に行ったことはない。だが聞くところによれば、そこは森と湖に恵まれた豊穣な大地で、ヤマにはヒグマがおり、川にはシャケが群れをなし、あの巨泉さんだって住んでいるという。
そういうすばらしい国なのだから、もしかしたら日本でいう62センチはカナダでは60センチなのかもしれないと私は思った。
ステットソンのパナマは、私の居だな頭をすっぽりとおさめた。一瞬、えも言われぬ感動とともに、44年の労苦が甦った。
子供のころから頭でっかちといじめられた。学制帽の後頭部を切り裂いてゴムを縫いつけた。自衛隊では補給陸曹と営内班長が、夜をつめて細工をしてくれた。
「……ぴったりです。これ、下さい」
「本当ですか? ……ムリしてないですか」
いかにも信じ難いというふうにかぶりぐあいを調べて、店主は快哉の笑みをうかべた。よほど売れずに置いてあったのだろう。あたりまえだけど。
「1万5千円ですけど、1万円でけっこうです」
店主はそう言ったが、私は1万5千円を支払った。どう考えてもイタリアに行くよりは安い。かくてステットソンのパナマ帽は、私のトレードマークになった。ちょっとキザだけれど、とうとうめぐり遭った恋人とはかたときも離れたくはない。
頭でっかちの私をやさしく包込んでくれる帽子に口づけをして―—おやすみなさい。
(初出/週刊現代1996年7月20日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。