マイナーやウインターリーグでも投げ続けた そんな大記録を残した野茂の一番の功績は、後に続く日本選手たちの道しるべとなったことだろう。数々の打撃記録を打ち立てたイチローもワールドシリーズMVPに輝いた松井秀喜(49)も、そ…
画像ギャラリー日本の選手として初めて村上雅則(79)がメジャーリーグのマウンドに立ってから2024年で60年になる。これまでに69人が海を渡り、今シーズンは史上最高額でロサンゼルス・ドジャースと契約した大谷翔平(29)をはじめ9チームで11人がプレーする。日本選手が歩んだ60年の歴史の中でも、村上の後30年の空白を経てプレーした2人目の野茂英雄(55)は、その後の道を切り拓いた開拓者と言っていいだろう。今や日本選手の存在なしに語ることのできないメジャーリーグ。今回は、野茂の活躍を振り返りながら「投手」に焦点を当て、二刀流・大谷に繋がる系譜をたどる。
「空白の30年」を経て2人目も投手
日本選手のメジャーリーガー第1号、投手の村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツでデビューをはたしたのは1964年9月のことだった。それから60年。節目となる2024年のシーズンに、ロサンゼルス・ドジャースと10年で総額7億ドル(約1015億円)の史上最高額で契約した大谷翔平が、メジャーリーグを代表するスーパースターとしてプレーしているのはなんとも象徴的だ。
村上が活躍したのは1964年と65年のシーズンまで。以後、「空白の30年」ができる。村上に続いて、2人目も投手だったのは、興味深い。野茂英雄だ。しかも、所属先は、現在、大谷がいるドジャースだった。
「メジャーへの憧れは、プロに入るか入らぬかのうちからあった。というより、野球をやっている以上、一番レベルの高いところでやりたいと考えるのは当然のことでしょう。そしてもしメジャーに挑戦するなら、自分の一番いい時期に、力のある時期に行ってみたいと思うのも野球人としては当然の欲望だと思います」(野茂英雄『僕のトルネード戦記』集英社、1995年9月刊)
26歳の初マウンド、初球はボール
1995年5月2日、ドジャースのユニフォームに袖を通した26歳の野茂はトルネード投法を引っ提げて、メジャーリーグの初マウンドに立った。初球は渾身のストレートを投げ込むも、わずかに外れてボール。21歳で近鉄バファローズに入団以来4年連続最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得するなど“超NPB級”の活躍を見せていた剛腕のメジャーリーグデビュー戦は、こうして幕を開けた。
折しも、メジャーリーグは選手会のストライキによってファン離れが加速した微妙な時期。スタジアムに観客を呼び戻すための話題を求めていた。しかし、この風変わりなフォームから豪球を投げ込むアジア人投手が、アメリカの野球人気復活にひと役買うことになるなど、この時点では誰も予想していなかっただろう。
近鉄を「クビ」、アメリカに新天地を求めた
前述の通り、野茂以前にも日本選手として村上が1964年から2シーズンに渡りメジャーリーグでプレーしていたことはあった。ただ、この時はマイナーリーグへの野球留学からの昇格というイレギュラーなケース。現役バリバリのトップ選手が、自らの意志でメジャーリーグに挑んだのは初めてのことだった。
そもそも野茂がメジャーリーグを目指すことになった事情は、昨今の日本選手のメジャーリーガーとは全く異なっていた。近鉄球団との確執から任意引退。つまり「クビ」だ。日本で野球ができなくなったという状況のもと、野球人生をかけてアメリカに新天地を求めたのだ。
年俸は最低保証の10万9000ドル(当時約980万円)。日米間で移籍に関するルールが定められていない中での挑戦には「自己満足」、「どうせ失敗する」といった心ない批判が飛びかった。
批判一掃の大活躍でオールスターにも出場
しかし、「希望はあるが不安はない」と単身渡米した野茂は実力で、批判的な声を一掃してしまう。
メジャー初登板では勝ち星がつかなかったものの、5回無失点、7奪三振と好投。登板7試合目の6月2日に初勝利をあげると、ここから2完封を含む6連勝の快進撃を続ける。前半戦を6勝1敗、防御率1.99の好成績で折り返し、オールスターゲームでは先発投手の大役を務めた。
トルネード旋風!日米での「新人王獲得」は野茂だけ
力勝負のメジャーリーグでは、小細工なしにストレートで追い込み、フォークで空振りをとる投球パターンがはまった。トルネード投法から繰り出す剛速球で、並みいる強打者たちをバッタバッタと三振に斬る姿にアメリカの野球ファンは熱狂。「NOMO MANIA」という言葉が生まれるほどのフィーバーを巻き起こした。
1年目は28試合に登板し、13勝6敗、防御率2.54、奪三振236をマーク。見事、新人王に輝いた。後に2000年に佐々木主浩(56)、2001年にイチロー(50)、2018年に大谷と日本選手の新人王は出ているが、日米での新人王獲得は野茂だけしか成し遂げていない。これは快挙だ。
メジャー実働12年、123勝は日本選手最多
パイオニアの苦労は、道なき道を切り拓いていくことにある。野茂はメジャー初登板の後、次のように話したという。
「僕はやらなきゃいけないんです。僕が失敗すれば、後に続く日本人選手がダメの烙印を押されてしまう」(週刊ベースボール2018年12月24日号『野茂英雄 時代を切り開いたトルネード』)
メジャー実働12年、7球団を渡り歩いて挙げた123勝は日本の投手で最多だ。2度の最多奪三振のタイトル獲得も文句なしの記録だ。
何よりも素晴らしいのが、両リーグでノーヒットノーランを達成したこと。最初はドジャース時代(ナ・リーグ)の1996年9月17日のロッキーズ戦、2度目はボストン・レッドソックス時代(ア・リーグ)の2001年4月4日のオリオールズ戦。両リーグでのノーヒッターは、サイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンという大投手たちに次ぐ史上4人目の偉業だった。
マイナーやウインターリーグでも投げ続けた
そんな大記録を残した野茂の一番の功績は、後に続く日本選手たちの道しるべとなったことだろう。数々の打撃記録を打ち立てたイチローもワールドシリーズMVPに輝いた松井秀喜(49)も、そして今日、大谷が二刀流でプレーできるのも、野茂がメジャーリーグの扉をこじ開けることなしには、ありえなかったと思う。
選手生活晩年はたびたび肩、肘の故障に見まわれ、なかなかメジャー契約を勝ち取れないこともあった。それでもマイナーリーグやウインターリーグで黙々と投げ続け、メジャーのマウンドに立つことにこだわり続けた。2008年、40歳での現役引退に際して野茂は「引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る」(日刊スポーツ2008年7月18日)と言った。
「悔い」とは生涯一投手としてボロボロになるまで、投げ続けていたかったということだろう。メジャーリーグのマウンドに立ち続けることにこだわった野茂らしい引退の言葉だった。
野茂=ドジャースから20年後、大谷がドジャースで登板する日は…
「ジャーニーマン」(熟練の技能を有した流しの職人の意。ここでは、経験が豊富でチームを渡り歩く選手のこと)とも称され7球団を渡り歩いた野茂は、12年のメジャー生活のうち、計7シーズンをドジャースでプレーし、勝ち星も81勝と半分以上挙げている。野茂=ドジャースの印象は強い。
野茂は2002年のシーズンからドジャースに復帰し、2004年まで在籍した。それから、20年---。
2024年、そのドジャースで活躍する大谷は、今シーズン、右肘の手術明けで打者に専念している。復帰登板は、来年2025年の見通しだが、手術の執刀医は予定通りの投球プログラムをこなせば今年9月最終週にも実践形式で登板できることを語ったという。
全米を熱狂させた「あの時」の野茂と同じドジャーブルーのユニフォームに身を包んだ大谷。ドジャー・スタジアムのマウンドで躍動する姿が待ち遠しい。
石川哲也(いしかわ・てつや)
1977年、神奈川県横須賀市出身。野球を中心にスポーツの歴史や記録に関する取材、執筆をライフワークとする「文化系」スポーツライター。
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