近鉄を「クビ」、アメリカに新天地を求めた
前述の通り、野茂以前にも日本選手として村上が1964年から2シーズンに渡りメジャーリーグでプレーしていたことはあった。ただ、この時はマイナーリーグへの野球留学からの昇格というイレギュラーなケース。現役バリバリのトップ選手が、自らの意志でメジャーリーグに挑んだのは初めてのことだった。
そもそも野茂がメジャーリーグを目指すことになった事情は、昨今の日本選手のメジャーリーガーとは全く異なっていた。近鉄球団との確執から任意引退。つまり「クビ」だ。日本で野球ができなくなったという状況のもと、野球人生をかけてアメリカに新天地を求めたのだ。
年俸は最低保証の10万9000ドル(当時約980万円)。日米間で移籍に関するルールが定められていない中での挑戦には「自己満足」、「どうせ失敗する」といった心ない批判が飛びかった。
批判一掃の大活躍でオールスターにも出場
しかし、「希望はあるが不安はない」と単身渡米した野茂は実力で、批判的な声を一掃してしまう。
メジャー初登板では勝ち星がつかなかったものの、5回無失点、7奪三振と好投。登板7試合目の6月2日に初勝利をあげると、ここから2完封を含む6連勝の快進撃を続ける。前半戦を6勝1敗、防御率1.99の好成績で折り返し、オールスターゲームでは先発投手の大役を務めた。
トルネード旋風!日米での「新人王獲得」は野茂だけ
力勝負のメジャーリーグでは、小細工なしにストレートで追い込み、フォークで空振りをとる投球パターンがはまった。トルネード投法から繰り出す剛速球で、並みいる強打者たちをバッタバッタと三振に斬る姿にアメリカの野球ファンは熱狂。「NOMO MANIA」という言葉が生まれるほどのフィーバーを巻き起こした。
1年目は28試合に登板し、13勝6敗、防御率2.54、奪三振236をマーク。見事、新人王に輝いた。後に2000年に佐々木主浩(56)、2001年にイチロー(50)、2018年に大谷と日本選手の新人王は出ているが、日米での新人王獲得は野茂だけしか成し遂げていない。これは快挙だ。
メジャー実働12年、123勝は日本選手最多
パイオニアの苦労は、道なき道を切り拓いていくことにある。野茂はメジャー初登板の後、次のように話したという。
「僕はやらなきゃいけないんです。僕が失敗すれば、後に続く日本人選手がダメの烙印を押されてしまう」(週刊ベースボール2018年12月24日号『野茂英雄 時代を切り開いたトルネード』)
メジャー実働12年、7球団を渡り歩いて挙げた123勝は日本の投手で最多だ。2度の最多奪三振のタイトル獲得も文句なしの記録だ。
何よりも素晴らしいのが、両リーグでノーヒットノーランを達成したこと。最初はドジャース時代(ナ・リーグ)の1996年9月17日のロッキーズ戦、2度目はボストン・レッドソックス時代(ア・リーグ)の2001年4月4日のオリオールズ戦。両リーグでのノーヒッターは、サイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンという大投手たちに次ぐ史上4人目の偉業だった。