「日本は、この娘婿(信長)の天下になる」
道三が、信長に初めて会ったとき、「これからの日本は、この娘婿の天下になるだろう」と思ったといいます。そして、「この若者にわが斉藤家は滅ぼされるな」とも直感したといいますが、そんななかでわが息子にも、少しは名を残してほしいとも思いました。道三は戦に負けないために、困難を承知であえて山のてっぺんに城を築いた男です。戦いでの攻められ方、守り方を熟知している男でした。
しかし、彼の人生最後の戦いは、不幸にして息子・義龍との父子対決でした。道三は息子の挑発に(わざと)乗って、長良川の河原で戦闘に応じたのです。道三の兵は、義龍側に比べ圧倒的に少ない数でした。
兵力に劣る側が平坦な地形で戦ったら負けることは、道三にしてみれば戦術のイロハのイです。にもかかわらず、戦上手の百戦の雄・道三はこの時、河原での戦闘を選択しました。これは、息子に、「さあ、父の屍を乗り越えて、信長に少しでも近づくことができる武将になれ!」という、父の最後のメッセージだったのではないか。息子の前に、あえて身をもって示した親の最後の情ではなかったかと私には思えてなりません。
信長が6年もかかった稲葉山城攻略
義龍はその後、信長に何度も攻め込まれて苦しむうちに、34歳で病に倒れます。息子龍興が14歳で跡を継ぎますが、結局は、永禄10(1567)年、稲葉山城は信長の手に落ちます。信長は稲葉山城攻略に6年もかかったことになり、いかに難攻不落だったかがわかります。
信長は井ノ口と呼ばれていた地名を岐阜に改め、稲葉山城を岐阜城としました。「岐阜」は中国の古代王朝、周が岐山という村から興った故事にならい、信長のブレーンだった沢彦(たくげん)和尚が進言したといわれています。なお、「阜」は、丸くふくれる形を表す単語。こうして岐阜城に本拠を構えた信長は、「天下布武」の朱印を用いて本格的に全国統一に乗り出していきます。