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家督を継ぐと、信長が同盟を…

永禄3(1560)年、浅井長政が家督を継ぐと、尾張の織田信長が同盟を持ちかけました。当時信長は美濃の斎藤氏との戦いに明け暮れており、その戦いは膠着状態にありました。そこで目を付けたのが、美濃の隣、近江の浅井氏だったのです。織田と浅井で斎藤氏を挟み撃ちにしようというものでした。

ここで登場するのが戦国時代の悲劇のヒロイン、信長の妹である市です。永禄10(1567)年に彼女は浅井長政のもとへ嫁ぎます。織田信長の一代記である『信長公記(しんちょうこうき)』によれば、お市の方は1547年生まれですので、21歳という当時としては遅い結婚です。いっぽうの長政は六角氏の家臣、平井氏の娘と結婚していましたが、六角氏との争いの際に離縁しており、お市の方とは再婚となります。

三姉妹が誕生

お市の方は美貌の持ち主と知られており二人の仲も睦まじいものだったと伝えられ、生まれたのが長女茶々、二女初、三女江の三姉妹です。

茶々は秀吉の側室となり、初は若狭小浜藩の京極高次に嫁ぎ、江は徳川二代将軍になる秀忠の正室となります。江は秀忠に嫁ぐ前に秀吉の甥・羽柴秀勝に嫁いでおり、完子(さだこ)という娘をもうけています。完子は叔母である淀殿のバックアップもあって、摂関家である九条家に嫁ぎます。

小谷城跡から大嶽城跡への道 Photo by Adobe Stock

信長の数少ない負け戦

話がそれましたが、永禄11(1568)年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を将軍とします。信長は将軍義昭を名目とし、各地の大名に上洛を促しますが、越前の朝倉義景はこれを拒否。これに怒った信長は同盟関係だった徳川軍とともに3万の兵を率い、元亀元(1570)年、越前討伐に向かいます。

この時朝倉との同盟を重んじた浅井長政は信長を裏切り、背後から襲いかかります。さらに朝倉との挟撃で織田、徳川連合軍を追い詰めます。これが信長の数少ない負け戦として知られる、金ヶ崎の戦いです。

浅井・朝倉軍の敗戦

この時の逸話として、お市が両端の紐を結んだ袋に小豆を入れ、信長に送り包囲の危機を知らせたというものがあります。そういう話が出てくるくらい絶体絶命だったのです。

信長は、殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉の活躍もあって、命からがら越前敦賀から朽木を越えて京に逃げ延びると、2か月後には兵を立て直して近江に迫ります。浅井長政軍8000は朝倉義景軍5千とともに姉川に布陣し、織田軍1万、徳川軍3000が激突。激しい戦闘になり、小谷城は何とか持ちこたえるも、浅井・朝倉軍の敗戦でした。

小谷城から琵琶湖を望む Photo by Adobe Stock
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松平定知
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