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武田軍が来ていたら…

さらに元亀3(1572)年、信長軍が近江に来襲します。朝倉軍が応援に駆けつけ、武田信玄の軍も足利義昭の「信長討つべし」の要請に応え、来援する予定でしたが、信玄の急死で武田軍は甲斐に戻ってしまいます。もしも、武田軍が来ていれば織田・徳川軍は追い詰められていたでしょう。

そして天正元(1573)年、信長軍3万は越前の朝倉義景を一乗谷に攻め、滅亡させたあと近江に進軍。小谷城を攻めたてます。浅井長政は籠城するも、自害し果てます。享年29。

「包囲」は不可能

この時小谷城は、秀吉軍にぐるりと包囲されたといわれますが、行ってみると城は崖の先端にありました。「包囲」は不可能です。聞くと見るとでは大違い、現場を見ることの大切さを教えられた城でした。

お市は最後まで長政の元を去ろうとしなかったと言われ、夫・長政に「この娘たちのために生き延びよ」と言われ、城を出ます。お市の方は、この長政の説得がなければ、歴史はまた別の展開を見せていたでしょう。

【小谷城】(おだにじょう)
小谷山(495m)の南の尾根筋に築かれた戦国時代の典型的な山城。日本五大山城のひとつに数えられる。4年にわたって織田信長に攻められ、落城。その後解体されて長浜城に移されたため、城郭としての建物は残らないが、自然の地形を巧みに利用した曲輪(くるわ)や石垣、土塁などが残っている。
住所:滋賀県長浜市湖北町伊部

小谷城跡 Photo by Adobe Stock

【浅井長政】
あざい・ながまさ。1545~1573年。北近江の戦国武将、浅井氏の3代目。織田信長の妹、市をめとり、織田氏と同盟関係を結ぶも、以前よりの同盟関係であった朝倉氏を重視し、信長を裏切る。信長軍の背後から急襲した金ヶ崎の戦いで信長を追い詰めるも、姉川の戦いで敗れ、小谷城を攻められ自害。享年29。

【お市の方】
1547~1583年。織田信長の妹に生まれ、浅井長政に嫁ぎ、茶々、初、江の3姉妹をもうける。長政自害の後は柴田勝家に嫁ぎ、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れると、一緒に自害した。福井市の西光寺に夫婦の墓がある。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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