1940年6月14日に完成、1回の跳開時間は20分
1940(同15)年6月14日に勝鬨橋は完成し、当時は「東洋一の可動橋」と評判を呼んだ。橋の建造は分業で行われ、月島側アーチ橋は石川島造船所、築地側アーチ橋は横河橋梁製作所、可動(跳開)橋は神戸川崎車輌が担当した。当初、可動橋の開閉回数は1日5回とされ、1回の跳開時間は20分であった。
開閉操作は、跳開橋を囲むように橋の4つの主塔部分の塔屋には運転室、見張室、宿直室が設けてあり、開閉操作はこの運転室から行われていた。跳開時には警報サイレンが鳴り、自動車と船舶それぞれに向けて信号器により停止、進行の指示をしていた。
開閉角度は最大70度、全開まで約70秒
跳開橋の開閉角度は最大70度で、全開するには約70秒を要した。跳開橋は片側だけを操作することや、跳開角度も通航する船舶の大きさによって調整ができる構造になっていた。橋を通行する車両荷重には、40t未満という制限がある。開閉部は容易に動かないように、電動式ロックピンにより固定され、現在もこのロックピンによって橋は固定状態にある。
跳開にする橋本体は片側だけで900トンもの重量があり、効率よく開閉操作するため可動部には1100トンもの重量の“カウンターウェイト”を設置して、開閉時の橋本体にかかる重量をバランスよく分散させていた。
橋上を都電が通行していた時期もあったが、橋の完成時点では橋を通る路線そのものが存在していなかった。しかし、将来を見越してレールなどは建造時から橋上に取り付けられており、まさに先見の明なのである。
1970年11月29日が最後
1953(昭和28)年を過ぎると大型船舶の通航量が減少したことで、橋の跳開回数も減少していった。1964(昭和39)年以降になると、跳開の回数も年100回を下回るようになり、船舶に対する跳開は1967(昭和42)年が最後となった。それ以後は、年に一度の検査時に跳開するだけとなり、それさえも交通量の増加を理由に1970(昭和45)年11月29日を最後に取り止めた。以降、電気は通電状態にあったものの、1980(昭和55)年に電気の送電も停止され、二度と可動させることはできなくなった。