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1940年6月14日に完成、1回の跳開時間は20分

1940(同15)年6月14日に勝鬨橋は完成し、当時は「東洋一の可動橋」と評判を呼んだ。橋の建造は分業で行われ、月島側アーチ橋は石川島造船所、築地側アーチ橋は横河橋梁製作所、可動(跳開)橋は神戸川崎車輌が担当した。当初、可動橋の開閉回数は1日5回とされ、1回の跳開時間は20分であった。

橋脚の塔屋に設けられた運転室の内部=2024年4月4日、中央区

開閉操作は、跳開橋を囲むように橋の4つの主塔部分の塔屋には運転室、見張室、宿直室が設けてあり、開閉操作はこの運転室から行われていた。跳開時には警報サイレンが鳴り、自動車と船舶それぞれに向けて信号器により停止、進行の指示をしていた。

橋脚部にある塔屋に設置された船舶用灯火信号器。この信号器は、行き来する大型船に対して、言わば通航許可を出していた=2024年4月4日

開閉角度は最大70度、全開まで約70秒

跳開橋の開閉角度は最大70度で、全開するには約70秒を要した。跳開橋は片側だけを操作することや、跳開角度も通航する船舶の大きさによって調整ができる構造になっていた。橋を通行する車両荷重には、40t未満という制限がある。開閉部は容易に動かないように、電動式ロックピンにより固定され、現在もこのロックピンによって橋は固定状態にある。

勝鬨橋の半開状態を橋の上部から撮影した貴重な写真(上流側を望む)

跳開にする橋本体は片側だけで900トンもの重量があり、効率よく開閉操作するため可動部には1100トンもの重量の“カウンターウェイト”を設置して、開閉時の橋本体にかかる重量をバランスよく分散させていた。

右上の大きな緑色に塗られた部分がカウンターウェイト。橋が跳ね上がる(開く)と、カウンターウェイトは左下のストッパーまで降りてくる。写真左手の壁の向こうが跳開橋に位置する。橋脚内見学ツアーの一コマより=2024年4月4日
モーターの力で歯車を回転させて、跳開橋を開閉していた=2024年4月4日

橋上を都電が通行していた時期もあったが、橋の完成時点では橋を通る路線そのものが存在していなかった。しかし、将来を見越してレールなどは建造時から橋上に取り付けられており、まさに先見の明なのである。

1947(昭和22)年から1968(昭和43)年2月までの間、都電11系統(新宿駅前~月島通八丁目)が橋上を行き来していた
築地と月島通八丁目の間に「勝鬨橋」の文字が見て取れる=1950(昭和25)年の都電路線図より

1970年11月29日が最後

1953(昭和28)年を過ぎると大型船舶の通航量が減少したことで、橋の跳開回数も減少していった。1964(昭和39)年以降になると、跳開の回数も年100回を下回るようになり、船舶に対する跳開は1967(昭和42)年が最後となった。それ以後は、年に一度の検査時に跳開するだけとなり、それさえも交通量の増加を理由に1970(昭和45)年11月29日を最後に取り止めた。以降、電気は通電状態にあったものの、1980(昭和55)年に電気の送電も停止され、二度と可動させることはできなくなった。

運転室から見た跳開橋=2024年4月4日
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橋梁内部は見学可能、毎週木曜に「勝どき橋 橋脚内見学ツアー」...
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