帝都復興のシンボルにはなれなかった
1923(大正12)年に発生した関東大震災による被害は、甚大なものとなった。その復興事業は、政府主導で行われることになった。当初は、大胆かつ大規模な復興計画が諮られた。だが、当時の経済状況を鑑みた結果、計画規模は大幅に縮小された。さらには、東京市中の川に架かっていた既存の橋が甚大な損傷を受けていたこともあり、新しい橋の建造どころではなかった。
このため、修復作業に全力が注がれることになった。当時、帝都復興事業の中では、現在の晴海通りにあたる築地本願寺より月島に至る27m幅の道路が建設されているが、この延長線上に架かる橋、のちの勝鬨橋については議論するまでもなく見送られた。
エレベータを備えた跳開橋!?
1930(昭和5)年には、3回目となる計画だけに終わった建造案だけが残されている。「帝都の復興に美観を添える」。そんなキャッチコピーのとおり、帝都東京に相応しいデザインが描かれていた。構造は、これまでの計画と同様に中央部が可動橋になっており、全橋長346m、中央の可動橋長は36mのバスキュールブリッジ(跳開橋)となっていた。
その開閉と大型船舶の航行には、約6分もの陸路遮断が見込まれた。このため、可動橋の川底部に橋と並行して自動車と歩行者用の地下道(河底隧道=かわぞこずいどう)が計画された。地下道へのアクセスは、橋の橋脚内にエレベータを備えるという非常に大胆な計画であった。残念ながら、この計画は机上論だけに終わった。
4度目の正直、7年を費やした工事
1929(昭和4)年になると、東京港修築計画が持ち上がり、交通需要がひっ迫していた勝鬨と月島を結ぶ渡し舟の代替策として、ようやく架橋の計画が4度目にして1930年12月の東京市会で可決決定した。時を同じくして、1940(昭和15)年に「皇紀2600年」を記念した「日本万国博覧会」が月島で開催されることが決定しており、会場へのアクセス道路の構築という後押しがあったことも、その一因といえよう。
検討段階においては、大型船舶をクリアできる高架橋にする案や、橋ではなく河底隧道(地下トンネル)にすることも議論されたが、費用が増大することから当初から計画にあった「可動橋」が採用された。建造にあたっては。日本の高い技術力を世界に知らしめられるような立派な橋が求められた。そのため、外国人技師に委ねることなく、そのすべては日本人技術者によって設計から施工まで行われた。工事は1933(昭和8)年6月10日から7年もの歳月を費やした。その間には、日中戦争の激化により当の博覧会は中止に追い込まれるも、勝鬨橋の建造だけは継続された。