武装した農民の力を引き出した
この時真田昌幸がとった作戦はいわゆるゲリラ戦で、敵を挑発しては城内に引き込み、武装した農民も加わって倒すというものでした。昌幸は農民も町民も身分に関係なく、敵を倒したものには褒美を与えるとふれ、力を引き出します。民衆は大木を転がしたり火を放ったりして敵を苦しめ、兵士は鉄砲で寄せる徳川勢を狙い撃つなど、さんざんに苦しめます。
こうして家康を撃退した真田昌幸でしたが、秀吉の調停もあって再び徳川家に仕えることになりました。
最終目標は「真田家の存続」
それから15年。家康は上杉景勝に謀反の疑いありとして会津討伐に向かいます。慶長5(1600)年のことです。真田家も家康に従うべく宇都宮城に向かいましたが、宇都宮城の手前、犬伏にあった陣所に、石田三成の蜂起を知らせる密使が到着します。
ここで真田父子三人が「今後」をテーマに語り合うのですが、ここでも昌幸の知謀が光ります。昌幸の最終目標は「真田家の存続」でした。世の趨勢から「今後の日本は家康かな」と直感していた昌幸は、すでに嫡男の信之の妻に、家康の重臣・本多忠勝の娘(小松姫)をもらうという布石を打っていました。
ですから、当然信之は徳川につき、徳川勝利の折の真田家は安泰とします。その一方で、自分(昌幸)と次男信繁(幸村)は上田城に戻るという結論を導き出します。これは万一、石田方が勝った場合のためで、その場合、真田家は大封を得、小大名から抜け出せるという計算、つまり「保険をかけた」のです。この「犬伏の別れ」と「小山評定」のあと徳川軍は家康が江戸に戻ります。
3万8000対2500の戦い、兵力差は15倍
家康は、そのまま江戸城に入り、開戦前に184通の書状をしたためたあと、9月になって江戸城を発ち、東海道を西に進みます。江戸城を出た徳川軍は、家康隊と秀忠隊の二つの隊。秀忠隊は本多正信、榊原康政、土井利勝など旗本たちが名を連ねた徳川軍の主力部隊で、その兵の数は3万8000人。家康隊は福島正則や黒田長政など外様大名たちを中心に東海道を行きますが、秀忠隊は中山道と、別の道。これは同じ道を通って、2人同時に戦死するリスクを避けるためでした。
秀忠隊は中山道まわりですから、信州、上田城を通ります。秀忠には15年前の屈辱が頭をよぎります。「今回こそ、上田城を獲ってしまおう!」
この時も昌幸は、2500の兵を率いて籠城します。3万8000対2500ですから兵力差は15倍です。いくら戦上手と知られる真田昌幸とて、今度ばかりはと誰もが思ったことでしょう。そこに昌幸の勝算があったのです。昌幸とすれば、本隊である秀忠軍が遅参すれば、それだけで西軍が有利という計算が働いていたのに対し、早く片付けて先を急ぎたい秀忠軍は、真田軍をおびき出すべく、城下の稲を刈り取る戦法に出たりします。