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外様大名が関ヶ原で活躍した背景は…

それに対して真田軍は、一戦交えた後あえて城に引き、徳川の各部隊が大手門に迫ったところで、城から一斉に鉄砲を撃ちかけました。これで徳川軍は総崩れ。この時を逃さず信繁(幸村)軍は野戦に出て、敵の本陣を奇襲、さらに近くを流れる神川の堤防を決壊させ、徳川勢は人馬が流されるなど大打撃を受け、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。そのぶん外様大名が大活躍。彼らに、家康は褒美として多くの領地を与えねばならなくなったことで、家康は怒ったといわれます。

たしかに、京都より西は、ほとんどが外様大名の領地となりました。でも、この秀忠大遅刻事件も家康、秀忠の両者が東海道と中山道と違う道を通ったように、2人の同時戦死を避けた家康の深謀と見る人もいます。関係者に事前に根回しして、わざと遅らせたのだ、と。真偽のほどはわかりませんが、昌幸、家康の知謀は、結果として歴史を動かしました。

上田城 Photo by Adobe Stock

【上田城】
真田昌幸によって天正11(1583)年に築城された平城だが、関ヶ原の戦いの後、徳川氏によって破脚された。元和8(1622)年、仙石忠政によって再建されるも、死によって中断。その後、平成5(1993)年になって本丸東門復元、平成6年、明治年間に遊郭に払い下げられていた櫓2棟が移築され、櫓門が復元された。
観覧料:一般300円、学生(高校生以上)200円、小・中学生100円(上田城南櫓・北櫓・東虎口櫓門)
営業時間:9時~17時
休館日:水曜日(祝日が水曜日に当たるときはその翌日、12月29日~翌年1月3日)
住所:長野県上田市二の丸6263番地イ
電話:0268-22-1274(上田市立博物館)

【真田昌幸】
さなだ・まさゆき。1547~1611年。甲斐の武田氏の重臣、真田幸隆の三男として生まれる。長男、次男が戦死したため家督を継ぐ。7歳で武田氏に人質として入り、信玄の寵愛を受ける。一説によれば、初陣は1561年の第四次川中島の戦いとされ、本能寺の変の後、主家を次々に替え、生き残りを図る。ゲリラ戦を得意とした戦国時代最高の謀将として知られ、1585年と1600年に起きた2度の上田合戦において徳川氏を苦しめる。西軍の敗戦で蟄居の身となり、1611年死去。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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