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《大正天皇登遐(たいしょうてんのうとうか)アラセラレ天地亮蔭(てんちりょういん)ニシテ擧國奉悼(きょこくほうとう)ノ忱(まこと)ヲ捧(ささ)ケ大喪儀(だいそうぎ)ハ乃(すなわ)チ春寒料峭(しゅんかんりょうしょう)ノ中(なか)ノ行(おこな)ハレテ轜車(じしゃ)ノ哀音今猶耳(あいおんいまなおみみ)ニ在(あ)リ。》 この一節は、大正天皇の御大葬(ごたいそう=葬儀)の様子を記した当時の文筆だが、読めずとも漢字から伝わる大正天皇に対する国民感情がうかがえる。ご病弱のなか、15年の在位を過ごされた大正天皇嘉仁(よしひと)陛下。その47年のご生涯に思いを馳せながら、武蔵陵墓地(むさしりょうぼち)を訪ねてみてはいかがだろうか。

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終焉の地は葉山御用邸

1926(大正15)年12月25日午前1時25分、葉山御用邸別邸(神奈川県葉山町)において、47年の生涯を閉じられた大正天皇。この年の夏、車椅子姿で葉山御用邸別邸へと向かわれたが、帰らぬ旅となった。すでに昭和天皇が摂政に就いてはいたが、「こんなに早く亡くなるとは思わなかった」と、当時の記録(側近事情録)にも記されていた。

とはいえ、記録の中には亡くなられた日付「24日」に抹梢線を引き、「25日」に訂正したものや、ページを後日差し替えたことを記したメモ書きも残されており、「24日午後7時をご危篤」とする説などとの関連性が気になるところだ。

大正天皇=写真/宮内公文書館蔵
「崩御」を伝えると同時に「新元号」をスクープしたとされる当時の新聞号外「東京日日新聞(現在の毎日新聞東京本社版)」。宮内省(当時)は、その後、正式に「昭和」と元号を発表したが、他の新聞社も「光文」と報じたことから、記事を見て変更したのではないかなど、数々の憶測を呼んだ=宮内公文書館蔵

第123代 大正天皇 多摩陵(たいしょうてんのう たまのみささぎ)

この地に御陵(みささぎ)を設けることになったのは、1926(大正15)年10月に発布された「皇室陵墓令」により、「陵墓を営建するべき地域は、原則として東京府及びこれに隣接する県にある御料地内」と定めら、当時の東京府南多摩郡にあった御料地内に「武蔵御陵墓地」が営建されるに至った。

御陵名の由来は、同地を含む地域を指す武蔵国の「多摩郡」から命名されたといわれる。陵形は、明治天皇の伏見桃山陵(ふしみももやまさんりょう/京都市伏見区)を参考にした「上円下方」で、上円は直径15メートル、高さ10.61メートルの規模を誇る。陵域の面積は2500平方メートルで、生前に育てられていた盆栽や植木が植栽されている。

陵は南に面し、ドーム型の上円の内部は「玄宮(げんきゅう)」と呼ばれる空間に石槨(せきかく)があり、その中に御霊柩が納まる=2007(平成19)年5月7日、多摩陵(東京都八王子市)
写真の階段を上ると特別拝所、さらに階段を上ると皇族拝所がある。鳥居は、皇族拝所と一般拝所に設けられている=2010(平成22)年12月25日、多摩陵(東京都八王子市)
上円内部(玄宮)に納められた「墓誌」の拓本。亡くなられた日時と、玄宮に御霊柩が納められた日が記される。斂葬(れんそう)とは、一般でいう埋葬を意味する宮廷用語=宮内公文書館蔵
山陵の五十日祭にあたり多摩陵を参拝する昭和天皇(左から2人目)=写真/宮内公文書館蔵
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陵印は、多摩陵と多摩御陵が一つに ...
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