軽井沢で終戦を迎えられた美智子さま
舘林に疎開した美智子さまたちは、舘林南国民学校に通った。美智子さまも紀子さんも、早く新しい環境になじみたくて「そうだんべえ」「なんとかすべえ」という、舘林の「べえべえ言葉」を使った。「おいこのもんだい、どうしたもんだい、おさけのもんだい、おつぎはおんにこにことわらわっせ、おさんこ、さけでものみなっせ」と、楽しい節をつけながらお手玉をして遊んだという。「あんたがたどこさ」と歌いながらの毬つきや、竹馬にも挑戦した。竹馬を次第に高くしていき、最後に片足で跳び歩いて片方の竹馬をかつぐ「兵隊さん」という難しい技も、美智子さまは得意だった。
学校にお弁当は持って行かず、昼には帰宅して乾燥芋やカボチャが入った雑炊を食べた。朝食には蒸したサツマイモやおひたし、昼食にはうどんや雑炊、夕食には麦入りご飯と野菜の炒め煮といった献立であった。美智子さまの母・富美子さんは、「あるもので間に合わせましょう。みんな苦しい時代ですから」とよく言っていたという。
1945年(昭和20年)6月末、戦況はさらに悪化する。舘林も危険となり、美智子さまたちは軽井沢に3回目の疎開をした。美智子さまと紀子さんは、軽井沢東国民学校に転校し、夏休みを迎えた。家の庭には古い桑の木があり、その実をとってジャムをつくり蒸しパンにつけて食べた。また、マコちゃんという親山羊とチコちゃんという子山羊を飼い、二人で毎日乳しぼりをした。10歳の美智子さまと11歳の紀子さんは、いつも一緒だった。8月15日、美智子さまは軽井沢で終戦の日を迎えた。
疎開の日々について、のちに美智子さまはこう述懐されている。1998年(平成10年)9月21日、インドのニューデリーで開催された第26回国際児童図書評議会(IBBY)世界大会でのビデオによる基調講演でのことであった。美智子さまは当時を振り返り、「度重なる生活環境の変化は、子どもには負担であり、私は時に周囲との関係に不安を覚えたり、なかなか折り合いのつかない自分自身との関係に、疲れてしまったりしたことを覚えています」と語られている。
大好きな「かけっこの順おじさま」が空襲に
いとこの紀子さんの父・順四郎さんは、終戦の年の5月25日に東京・山の手の大空襲で亡くなった。その夜、舘林から見た東京の空は真っ赤に燃えていた。美智子さまの母・富美子さんは「起きてごらんなさい」と子どもたちに言い、燃え上がる東京の空を見せたという。不思議なことに紀子さんは、起こされたときに父・順四郎さんと火の夢を見ていたという。「あの時、お父さまは火の中にいたのね」と、のちに紀子さんは振り返った。
「かけっこのおじさま」と呼ばれた順四郎さんは、享年39。「順おじさまは足が速いから逃げおおせたわよ」と皆で話していたが、いっこうに帰らない夫を心配して、三日後に紀子さんの母・郁子さんが順四郎さんを探しに行き、東京の惨状を目のあたりにする。