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ジウジアーロとパラダイス山元氏

その初代レガシィのデザインは、イタリア工業デザイン界の巨匠であるジョルジェット・ジウジアーロが手掛けたと言われていた。それに対し富士重工は完全な車内デザインであると否定していた。火のないところに煙は立たない。ジウジアーロが手掛けたアルシオーネSVXがデビューしたのは1991年だから、レガシィの開発期間と一部ダブっていることが影響したのかもしれない。または、実際にはデザインワークにおいて何らかのアドバイスがあったのかも。

アルシオーネの後継がSVXで、巨匠ジウジアーロがデザイン。現代にも通用するデザインが素晴らしい

初代レガシィのデザインといえばパラダイス山元氏。マンボ奏者として活躍する傍ら、『マン盆栽』(盆栽にフィギュアを添えるアート)の総本家、グリーンランド国際サンタ協会の『公認サンタクロース』として活動するなど多彩。クルマ雑誌の『ベストカー』の取材でパラダイスさんとご一緒させていただいた時に、大学卒業後に富士重工に入社してデザイン部に配属されて、初代レガシィ、アルシオーネSVXのデザインに携わったと伺いビックリしたのを覚えている。

自動車雑誌『ベストカー』にご登場いただいた時のパラダイス山元氏

モータースポーツで活躍

富士重工は初代レガシィがデビューする前年の1988年にスバル車によるモータースポーツ活動を担当するSTI(スバル・テクニカ・インターナショナル)を設立。

富士重工は4WDをアイデンティティとしていたこともあり、古くからラリー活動を積極的に展開していた。当然のようにレガシィも日本のラリーの最高峰である全日本ラリーに投入され、4WDターボの利点を生かして大躍進。レガシィユーザーをSTIが手厚くサポートしたのもポイントだ。

全日本ラリーでの活躍は多くのスバルファンを喜ばせた

そして世界のラリーの頂点、WRCにも参戦開始。STIはイギリスのプロドライブとパートナーシップを結び、初代レガシィは1990~1993年まで実戦を戦った。しかし現実は厳しく、ポテンシャルは高かったがなかなか勝てない。そんななか、1993年第8戦のニュージーランドラリーで名手コリン・マクレーの手によってレガシィが初優勝。

チームはこのニューランドを最後に、次期マシンのインプレッサに切り替えることを決めていた。つまりニュージーランドはレガシィにとって最後のWRCだったわけで、最後の最後で初優勝を決めるという劇的なフィナーレとなった。

富士重工が本格的にWRCに参戦するきっかけを作ったのが初代レガシィ

最初はセダンが人気だった!?

では初代レガシィはどのくらい売れたのか気になるところだが、富士重工が発表している販売データは以下のとおり。

■1988年度:セダン6636台/ワゴン2529台、合計9165台
■1989年度:セダン2万7984台/ワゴン2万4768台、合計5万2752台
■1990年度:セダン2万1709台/ワゴン3万6346台、合計5万8055台
■1991年度:セダン1万9969台/ワゴン4万6058台、合計6万6027台
■1992年度:セダン1万2933台/ワゴン4万6772台、合計5万9705台
■1993年度:セダン1万1585台/ワゴン5万9819台、合計7万1404台

今見るとステーションワゴンの伸びやかですっきりしたデザインがナイス

1993年度については、1993年10月に2代目が登場しているため、2代目との合算となっているが、デビューから常にセダンとワゴンを合わせて月販平均5000台前後をマークしている。レオーネの販売実績から考えると奇跡的な販売と言える。

 レガシィと言えばツーリングワゴンのイメージが強いが、デビュー後2年はセダンのほうが売れていたというのは意外だ。ただ、その後のツーリングワゴンの伸びが初代レガシィの成功に欠かせない要素だったことは明らかだ。

ステーションワゴンとしての使い勝手も充分に考慮されていた

ツーリングワゴンの万能性を認知させた

初代レガシィが売れたのには、いくつもの要因がある。走りのよさにより高速ツーリングカーというこれまでの日本にはないジャンルを確立したことは大きい。

それから、当時の日本車のワゴンは商用車ベースのものが多く、ワゴン=バンというイメージがあるなか、レガシィは商用車を設定しなかったのもステーションワゴンというジャンルを確立する大きな要因となった。

いつでもどんな路面コンディションでも安心・安全に走れる4WDの信頼感は絶大だった

それからイケイケ状態だったバブル景気による後押しがあったのは間違いない。さらにそのバブル崩壊が初代レガシィにとっていい方向に作用したのはある意味神風だった。バブル崩壊によりユーザーはクルマを使って楽しむ方向にシフトしていき、それによってツーリングワゴンが大人気となった。本格的なワゴンブームは2代目レガシィツーリングワゴン時代だが、使い勝手のよさだけでなくステーションワゴンの万能性を日本人に認知させたのは初代レガシィツーリングワゴンだ。だから、初代レガシィの登場後に各メーカーがステーションワゴンを市場投入したが、ステーションワゴン=レガシィのイメージは揺るぎなかった。

自動車メーカーが一台のクルマで甦ることはあるかもしれないが、ここまで逆転ホームラン的な例はあまりないのではないだろうか。

ステーションワゴンは2Lターボの追加で販売激増

【初代スバルレガシィツーリングワゴンGT主要諸元】
全長4600×全幅1690×全高1470mm
ホイールベース:2580mm
車両重量:1440kg
エンジン:1994cc、水平対向4気筒DOHCターボ
最高出力:200ps/6000rpm
最大トルク:26.5kgm/3600rpm
価格:264万8000円(4AT)

【豆知識】
スバル1000は富士重工初の量産小型車で、1966年にデビュー。ボディサイズは全長3925×全幅1480×1390mm。駆動方式はトヨタ、日産が開発を進めながら商品化できなかったFFを採用したことで富士重工の技術力の高さを大々的にアピールすることに成功し、これが熱狂的なスバリストを生んだ要因になっている。エンジンは一般的な直列ではなく水平対向というのもマニアック。搭載されたEA52は997cc、55ps/7.8kgmのスペックだった。

富士重工初の量産小型車のスバル1000は4ドアと2ドアをラインナップ

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/SUBARU、ベストカー

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市原 信幸
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