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一大プロジェクト「札幌急行鉄道」構想

定山渓鉄道を買収した東急グループを率いた五島慶太は、東急式経営に基づき、沿線での宅地開発、学校誘致などを進めた。これと同時に、定山渓鉄道も中山峠方面への路線延長や札幌駅まで国鉄線への乗り入れなどを画策した。

また、夕張鉄道(北海道江別市と夕張市を結んでいた昭和50年に廃止となった鉄道)と共同で、札幌から上江別への新規路線を計画し、さらに上江別から夕張鉄道へ乗り入れることで定山渓鉄道と夕張鉄道を一元化して、“一大交通網を整備”しようとした。これが「札幌急行鉄道」構想であった。

しかし、東急社内で検討を重ねた結果、採算性は見込めないと判断し、この札幌急行鉄道の設立は頓挫した。

東急傘下の東急車輛(現在の総合車両製作所)が製造した定山渓鉄道としては最後の新型電車モ2300形=1964(昭和39)年10月、写真提供/定山渓郷土博物館

札幌市の地下鉄建設、昭和44年11月1日限りで廃線

昭和30年代後半になると、沿線にあった豊羽鉱山(とよはこうざん)からの鉱石輸送がトラックに切り替わるなど、鉄道輸送に陰りが見えはじめる。計画されていた中山峠(支笏洞爺国立公園)方面への路線延長や、線路を複線化してスピードアップすることなどが実現せず、温泉客をはじめとする鉄道利用客は、道路事情の好転とともにマイカーや路線バスへとシフトしていった。

1966(昭和41)年には、沿線の踏切解消問題が浮上し、路線の高架化や廃止までもが議論されるようになった。こうした中、札幌市が地下鉄南北線を建設するにあたり、南平岸駅~真駒内駅間の用地として、定山渓鉄道の路線用地を買収して転用したいと打ち出した。

定山渓鉄道は、この提案に応じることで鉄道事業からの撤退を決め、1969(昭和44)年11月1日限りで51年間の鉄道史に終止符を打った。

路線の廃止を伝える「さようなら電車」=1969(昭和44)年11月、写真提供/定山渓郷土博物館
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在りし日の鉄道風景を訪ねて...
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